【2026 雀始巣】
すずめはじめてすくう
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アシタハココカラ
2026.3.24
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【ヨルとイオ】
pieces of the puzzle
昨年から書いていた物語的な連載【ヨルとイオ】は、長期間働けなかった気の毒な自分をちゃんと気の毒だと自覚することにより、社会的な現場に馴染ませようとして書きはじめたものです。こうなったら思いっきり妄想してみよう、と思って、出身地にこ゚縁があったように思われる、まさかの(笑)アイドルのマネージャー業務をやる自分を想定して、書いてみました。そこから想定外の(汗)、過去生での悲しみ苦しみの、最後の毒出し期間を経て、自己解釈による治療も進み、この頃に紡いだフィクションが、思いも寄らないところが現実に近くなり、反対に虚構になるべきことは虚構になり、後編ではなく前編の続きが出てきました。前編は整理して、この部分だけ読みやすくなるように取り出したいと思っています。
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「イオさん」
退社するイオに、上司が後ろから声をかけてきました。 「もう退職届まで受け取っているのにね?」 イオは振り返って、ちょっと首を傾げました。 「忙しすぎて、一度も貴女とお茶すら飲んだりしたことなかったから。ちょっと、最後にご一緒しない?」 「はい」 数十分後には、イオは、おそらく上司がゆっくりしたいときに訪れるのであろうお店の奥のテーブルに案内されていました。 「食べ物でもお茶でもお酒でも、何でも」 「ありがとうございます」 女性二人の、のんびりした時間が流れていきます。美味しい食事でお腹が満ちたあと、おしぼりで手を拭きながら、上司がちょっと思い切ったように切り出しました。 「あのね?貴女は小さかったから、覚えていないと思うんだけれども」 イオもそこで思わずおしぼりを手にとって、手のひらと指を湿して、気持ちを改めました。 「私ね、あなたがおばあさまと暮らしていらっしゃるときに、お宅に行ったことがあるのよ?おばあさまが招いた女性と一緒に。彼女がその機会に、私を連れて行ってくれたの」 「もしかして、その方はアメリカ人の方ですか?」 「そう、ドイツ系のね。でも見かけは白人で、英語を話していたから区別できないわよね」 上司はそう言って、お茶を飲みながら笑いました。イオは、当時のことを少し思い出しながら答えました。 「その方ばかりが、お元気で祖母と話していたので、ご一緒していた方の印象が薄いのですが、そっか、あれが」 「そうそう。あの頃、いちばん地味だったから私」 「祖母は英語を話す人だったので、同じく英語を話す方と得意そうに話すのがとても嫌で、お相手の方も、幼い私のことを可哀想な子だって、母も海外に出ていていませんでしたし、それをおそらく無意識に投げかけつつこちらをたまに眺めては、英語を話す祖母が私と比べて『良い状態の人間である』とでも言うようにお話しをされていて」 「幼い貴女の、沈黙したままの、とても静かな怒りがね、私には伝わってきていたの。彼女はおそらく本当に無意識だったと思うんだけれどもね、私にすら、貴女が感じたようなことが感じられていたから」 「上司もほとんどお話なさいませんでしたね」 「ちょっとね、それは理由があって。おばあさまに内緒で、面通しさせていただいただけだから」 「そうですか。私が用意されたお菓子に横から手を出したのを、祖母に途中で咎められましたけれども、最後の方で、お土産として、チョコレートとキャンディでできたレイをくださった。それを私の首にかけてくれたのは、こちら側のソファに腰掛けていたあなたでしたね」 「そうね。あの日私がやったのって、確かほとんどあれだけよ?でも貴女に少しでもしてあげられたことが、私の救いでもあったの」 「あれだけがちょっとだけ嬉しかったです。レイというのが、首飾りのことで、ハワイのものだとかろうじて知っていて、アメリカの中でもハワイだけは、祖父が住んでいた場所として、親しい名前だったので」 「そうそう。だからレイにしたんだけれどもね」 「祖父のことを、ご存知なんですね?」 「そうね」 イオは、しばらく上司の様子を伺っていました。上司は下を向いて、またおしぼりを触っていました。そこからイオは、今はこれ以上、聞くのはやめようと思いました。 「私は見た目にはあまり分からないかもしれないけれど、ロシア系なのよ。そう言えば、あの時期にあなたのお宅にいた気分の複雑さが、おじいさまのこととは別に、伝わるかしら。英語を話せていたから分からなかったと思うけれども」 イオは、少し目を丸くして、 「はい」 と言いました。 「あの時期のワシントン・ハイツの建物には、意外にいろいろな国の方がいらしたんですね」 「そうね」 イオには、あのときに饒舌に話していた女性と違って、その女性と横に並んで、部屋の奥に置かれた、同じ一人用の来客用の大きな肘付きのソファに、上司が遠慮がちに静かに座っているだけだった理由が、ようやく分かりました。ちなみに祖母とイオは、手前側に三人掛けのソファに座っていました。なんならイオは、ソファには座っていずに、応接間のエリアの横に置かれたグランドピアノの、ピアノ用の椅子をこっち側に向けて座っていました。 「よかった。この業界にまるで縁のない貴女にヨルのマネージャーを任せたのは、あの日のことが印象に残っていたからなの。もう一つ、驚かないでね、私はヨルの母親なの。血縁的にはね。彼にも誰にも、言えていないけれど。乱暴されてできた子だったから。彼にそれを言いたくないの。ごめんなさい、本当に。あなたを追い詰めた形で退職させておきながら」 イオは、ただ自分の前にあるテーブルとその上に乗っている食器だけをぼんやり視界に入れながら、心の方のフォーカスを上げていました。ヨルと、ライブ会場の爆音を外で聞いたときの話、胎内巡りと心音の話をしたときのこと、知らない母親のことを思って泣いていた彼のことも、思い出していました。でも、それをここでスラスラ伝えるのには、イオの余裕が全然足りませんでした。 イオが何も答えないでいるのをじっと受け止めているようなふうに、少しして、上司は口を開き、 「もう少し、ご一緒していても大丈夫?」 と少し気の弱い声で言いました。 「はい、もちろん」 とイオは答えました。 「あの」 とイオは、ふと思い出したように、 「高校生の頃に見た広告の言葉で、『生きるが勝ちだよ、だいじょうぶ』っていうコピーがあって。私、この言葉がすごく好きなんですけど」 「今の私の『大丈夫』で思い出したのね?」 と上司は少し笑いました。 「はい。基本『勝つ』って言葉が嫌いな人間なので、わりかし好きな『大丈夫』という言葉とそれを組み合わせるこのコピーを、なんで好きなんだろうって思っていたんですが」 「ええ。なんで?」 「ずっと死にたかったんです。そのくらいの頃からずっと。言葉にもできないほど」 「分かるわ。本当に死にたいときには、言葉にはならないわよね。むしろ『生きたい』ときじゃないと、死にたいという言葉は出てこないのよね」 「はい」 「言葉って不思議だと思ったものです。死にたかった頃、私も。彼を産んだ頃、特にね」 「続きを話して大丈夫ですか?」 「ええ、もちろん」 「なんか、今、どっと聞こえてきて。お前にとっての『大丈夫』を見ないまま、死んでしまっていいのかって。『大丈夫』という言葉が好きなら、生きて、自分にとっての大丈夫を、もう一度信じられるように、感じられるようになるまで生きて取り返せって」 「素敵ね、そう考えるなら、死ぬのをちょっとは保留にできそう」 「はい。ここまではっきり、この言葉から受けていた印象を言語化したことなかったんですが、だからこの言葉を持っていて大丈夫だったんだなって、やっと分かりました。『勝つ』って言葉が入ってても」 「考えてみたら、おじいさま、お名前に『勝』が入っていたわね」 「あ、ほんとだ、忘れてました笑。あの時期に『勝三』って、漢字でも音でもヤバいですよね笑」 「そうだわね、特に日本ではね笑。ハワイやアメリカにいらして、むしろよかった気がする」 「祖父のこと、こんなふうに話すのも実は初めてです。祖母は、こういうふうに祖父のこと捉えていなかったから」 「そう、なら、思い切って今日話して、よかったわ」 「はい」 「人と争うのは嫌いだけれど、自分と戦うのは悪いことじゃないと思ってるの、私は。自分にとっての『大丈夫』を確認するため、確保するために、死にたい自分と戦うのは、悪くないわ」 「はい。上司と話さなければ、この言語化、きっとできなかったと思います。ありがとうございます。なんかどっか引っかかっていたのに、どうしても好きな言葉だったので」 「いいえ。そうやって、広告で、誰が言っているのか分からない、街やテレビでふと見かけた言葉に、励まされることってあるわよね」 「他に属性がつくと、自分にとってのその言葉の何かが減っていっちゃう気がして、勝手にもらってて」 「いいんじゃない?広告だもの。アイドルと同じで、励ませる対象が特定の誰かにはなっていないのよ。だからこそ、相手の思い入れだけのものになって、効果が最大になるんだと思うわ。受け取る側が勘違いを起こさないかぎりね。勘違いさせない配慮も相当に必要になるけれど、不特定多数を相手にするというのは、そういうことだと思っています」 「はい。私が退職することになったのも、その勘違いをヨルの周りの誰にも、させないためだと思っていますので」 「そうね、難しいことだから、この関係を勘違いしないのは、とてもね」 「分かっていたはずのことですし、この間、ヨルとの交流でいただいたものは決して失われないような大切な記憶になりますので。この件によって、自分が仕事を失敗したとも思っていません」 「もちろんよ、私もそうは思っていません」 「ありがとうございます」 「死にたい感じがね、似ているのかもしれない、私たち」 イオの謝礼に対して聞こえてきた上司の言葉は、とても強いものだったけれども、彼女の声が夜も遅くなってきたお店の一角の空気に溶けていくのを、イオは静かに、心地よく感じていました。 |
2026.3.23
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自分に期待していいこと、しない方がいいこと。 もっと自分がやりたいことを願ってください、とか想像してくださいとか、言っている人がいるのだが、これが叶う自分かどうかというのをきちんと認識しながらにしないと、自分を虐めるだけのことになって、結局とてつもないハイリスクをいつも抱えていることになる。 私は、30歳から20年以上、精神病者として強烈な薬を投与されてきたが、病気の症状の影響というよりは、薬によって五感も体感も、脳や内臓の活動も、拘束具と同じくらい抑えられてきた。ちなみに、発狂した経験はない。発狂したときに身体に外側からかけられる拘束具と同じくらいに、身体に内側から拘束を受けてきたとして、薬や通院が終了したからと言って、普通の人間と同じように自分に期待ができるだろうか。 昆虫のノミをガラス瓶に入れたときのジャンプ力でのたとえがいいと思うが、ノミの本来の跳躍力のはるか小さな高さのガラス瓶の天井に激突ばかりしていると、ガラス瓶の蓋が透明で空は見えるので飛べると思ってジャンプするわけだが、何度も「見えない天井」にぶつかって、それ以上の高さに飛べない、外部との連絡もない、そしてその理由も明示されないままそうやっていると、ノミはいつしかその高さ以上には飛ばなくなってしまう。天井を外しても、その跳躍力が回復することはないそうだ。 動物園で鎖に繋がれたゾウも同様なのは、戦時中の動物園の逸話として有名な話だ。あ、もしかして、彼らのしんどさを体現させられているのかな?彼らに、乱暴に動かないように、麻酔や薬打ったりとかしてます?? 人間なら、最も活発なのは脳だから、そこに彼らが受けた屈辱や苦痛を、転じて体験させられているのかな。あ、そうなら分かるわ。それでも死なずに耐えて人間をやろうとする人にしか、そういうのは来ない。彼らをかつて苦しめた人間には、実はあまりやってこない。なぜなら、この転嫁は、人間への復讐のためでなく、この、地球上で一緒に暮らしている生物が受けている状況を、真に経験・理解して、改善してほしいためだからだ。 冒頭の自分への期待の話に戻るが、なので、私は自分に期待ができない。ただ、日常的にやれると思ったことをやる。それ以上に、例えば社会的な成功を願えと言われても、もう無理だ。 これを、脳や心の問題ではなく、身体の話だと分かりやすいかもしれない。胃を切って三分の一になった人がいるとして、その胃にフルの大きさだったときの消化力を望む人がいるだろうか。そんなことしたって、胃がつらいだけでは?その胃で、望めることと望めないことがある。自分に期待しても叶わない食生活がある。 手足等の部位の損傷の話であれば、身体にかけられる負荷や動きに、それが如実に、自分自身にも見えざるを得ない様子で反映される。自分に期待したからって元通りの動きができるようになるかといったら、身体拡張の器具にでも手伝ってもらわないかぎりならない。元通りの動きに近いものができるようになったとしても、それは自分の身体での動きとは別物だ。慣れる訓練が相当に必要だろう。身体に常に負荷がかかった状態を克服して偉いとか、それこそが自分の運命に課されたギフトだとか、そんな他者に安易に共有できるような納得ではカバーしきれないほどの困難が、他者には分からない形で訪れている。 けれど、脳や心もそれと同じで、その動きや能力が見えない状態ではたらくからといって、自分への期待が大きければ、単純に頑張れば叶うという話ではないのだ。百歩譲って、できる可能性が残っているとして、失敗すればもっとできなくなる。自分への期待がまた地に落ちる。ノミが跳躍で、見えない天井に向かって失敗しつづけたときと同じように。 精神が病んだ身体には、見えない体内で、永遠とも思われる連続失敗が起こっている。五感をいつも通り働かせようとしても働かない。内臓も脳内の活動も同様だ。すべてに鈍感になり、自分が自分でないように感じる。何度も何度も、身体が自分をこれまで通りの負荷で試しても、失敗しつづける。これで諦めて、動けなくなる身体ももちろんある。そのガラスの天井は、自分で自分を守るために、自分自身によって、気がつかないように作られている場合もあるからだ。自分の身体から休養と回復を促されていると認識できるかどうかが、運命の分かれ道になる。 一方、本当は元気であるのに、もしくは過剰に脳が危機を感じて過剰防御となって(いわゆる精神病者による発狂とは、この状態が表現されたものだ。つまり、動物たちが仲間に「危機だよ!」と知らせようとする類の社会的シグナルの一種といえる。それが陰謀論によるものに、本人にすら見えていてもだ。陰謀論が精神に与える危険性を伝えているという意味で、これもシグナルの表出なのだ)、精神病薬を入れた場合、薬を飲みはじめたばかりの身体には上記の、脳だけでなく五感や内臓等の働きを抑える身体拘束ともいえる効果が、身体中に蔓延する。 この場合、必ずしも寝たきり的な休養は必要なく、最も必要なのは危機感を下げる環境と心理的安全性、安心感だ。それが最低限、確保された後には、身体は適切に身体が運営されるように、すべての感覚を通常よりも強く働かせようと頑張る。薬によって抑えられているので、何度も失敗する。そうやって最終的に認識された、脳を含む身体的活動範囲内でも、自分の身体が十全に生きられるように、身体に働く強さを調整する。そうでないと人体活動が滞って、最終的に各々の機能の活動同士が噛み合わなくなって、死んでしまうからだ。 この認識は、私の経験として、ごく短期間、薬の効果を抑えたときに、これまでの数倍の五感が身体に働いていた(自分の声でさえ身体にわんわん響く、同じはずの味が数倍濃く感じる、手が思ったよりも先の場所に出てしまうなど)と理解されたことによる。 私の場合、自分の意志で厳戒態勢で指定通りに服薬していたが(それが障害年金を受給している精神障害者としての責任だとも思っていた)、どうしても身体に抵抗を感じる場合に、減薬を試した。毎度、約半日でこの感覚過剰状態に至り(薬による負荷がかからないからだ)、三日と我慢できないのでまた元通りの量に戻すということを、数年に一度、繰り返した。 そして最終的に、ある果物を過剰摂取するようになり(その果物は以前の好物だったわけではなく、そこまで同じものを食べつづけた経験は私にはない笑)、半年ほどしてその果物がこの薬の阻害作用をもたらすものであることを知ってもなお、つまり服薬との葛藤が起こりつづけてもなお、そこから半年以上食べつづけたかった→本当に食べつづけたと理解されたときに(なのでこれは目標ではなく体験の持続としての経験)、薬を止める決断をして、当時の主治医に相談した。この薬をこれ以上、自分の身体に投与しないことが、身体、ひいては自分全体から脳への要請であると信じられたからだ。 薬服によってどれだけ体内での調整が行なわれていたかを知ったとき、その適応能力に感嘆したことも、病中の忘れられない記憶である。 そんな状態からようやく解き放たれた身体で、どんなに自分に一見ポテンシャルがあるように思えても、自分の社会的成功に期待するとか一人前に稼ぐとか、そんなギャンブルみたいな負荷を自分にかけることは、自分にはできない。自分いじめになりそうで、できない。 二十数年にわたる服薬で、全身が疲れている。特に、身体活動を薬の目的的に抑圧されてきた脳よりも感情よりも、胃がだいぶ疲れているように感じる。もともと胃が丈夫で、食べるものの拒絶はほぼしてこなかったので(出るなら上からでなく内臓全体が納得がいったうえでの下から)、内臓全体で、薬からの作用を受け止めつづけた。 内臓たちは、薬からの負荷は、私の(脳の)厳格な決心から、もう生涯付き合うしかないものとして、観念していたのかもしれない。 長いこと、死にたい死にたいと思っていたのは、活動抑圧の対象となっていた脳というよりも、このいじめにも近い作用を受けつづけてきた内臓たちなのだと思う。今の感覚では、そう思う。脳に起こっている危機感を何事もないかのように受け止めてあげるには、生きているかぎりどんなときでも動きつづける前提ではたらいている内臓たちが我慢するしかなかったのだなと。脳が殺されても心が殺されても、私が私でなくなっても、内臓たちが耐えつづけてくれた。 内臓たちは、本来人体では受け得ない、異常で長期の負荷から開放されて、茫然自失しているような感じに見受ける。「これからどうしよっかなー」。例えるなら、私の体内において、心の状態を反映していると言われる腸内細菌の界隈で、攻撃して責めつづける野党でなく(小さい生きものたちの意思では基本、対象はなくベクトルしかない)、ひたすら体内を守ろうとしてきた与党が圧勝したらしく、でも安心しただけでイマイチやることが分からないというのか。これまでは、野党の叱責をなんとか防衛/回避することしかできないくらい攻撃にさらされている状態だったからだ。飲んできた薬も、脳にはどうか分からないが、正直、内臓にとってはほぼひゃくぱー異物=敵だしね。 一方の脳の方は、むしろ抑圧と負荷から開放されたことでやるべきことを分かってきている感じだが笑、心が脳を肯定しきれない。「えー、脳に任せるとまたやなことやるんじゃないの?」。心を運営している腸内細菌たちが(ちなみに地球上で最も潜在的に力を持っているのは、生物の役割分担においていちばん上のチャクラ、第七チャクラを司っている彼ら菌類である。めっちゃ生物の初期の初期の古くからいてちっちゃいから超いっぱいいていろんなものを分解したりその過程で発酵させたりめぐりめぐって回復したりして、人間からすると破天荒なくらいに明るい、赤ちゃん天使のケラケラ笑っている笑い声そのものみたいな存在である)、これまでの脳の意思、内臓に対して超過激に負荷をかけた=強烈な拘束具としての服薬という外部圧力に屈してきた、複雑怪奇で悩み多き脳の意思を、完全に肯定できるまでには信用回復ができていないと言うべきか笑笑。 とりあえず、内臓たちは、細胞修復のために?体内機能回復のために?食べたいものは食べたいようで(これは腸内細菌の意思の反映とは限らない。ここはいわゆる感情による方向性ではないので)、これは私が、今の自分でも身体にしてあげられる、数少ないこと、自分の中を物理的に入れ替えていく唯一の手段でもあると思っているので、そうしてあげている。それで、特に食事のあと気絶しそうに眠くなったら、ちゃんと胃のために休む。この「胃に時間をあげる時間」には、脳はお休み、他の部位も感覚も、自律活動以外はみーんなお休み。 ちなみに、自分の中を入れ替える方法として(これはまさか、服薬による身体内活動の強制修正/矯正変換によって身体が覚えたのだろうか??)、落ち込んだら、今は新しい水(水分)を飲むだけでも、現状や事態への認識が変わってくる。 今の自分が自分に期待していいこと、自分に対して現実化していいことというのは、今の生活能力と活動状態を安定的に維持できるだけの環境が整うこと。そして今までの過去生を含めた怒りすべてを、きちんと吐き出すこと。誰かのために(これは具体的な責任追求などネガティブな方向性も含めて)じゃなく、私のためにだ。今の私は、自分のためにしか何かをできないし、それでいいと思う。 「貴女の場合は、究極に自分の為というのが、他の全ての他者の為になっちゃってるの」とnobody。「だから、貴女はただ、自分を回復すればそれでいいんだよ?その過程で起こること、怒ることも含めて色んな、貴女が観たかった、色んな景色が、きっと見えるよ?」 nobodyもそうじゃない?「私はそれほどじゃありません。男で、外部の属性が影響しやすい性別だからかな?自分の為は自分の為として出てきてる気がする。そうじゃないと、そこが貴女みたいに自我を意識すると同時に他者に反転してっちゃうと、自分も他の人も守れないし」「今の貴女は、自分というものを全く守れない状態で生きてるの。やっと私と同じものを今の貴女に望んじゃいけないって分かってきた」 これから彼と一緒に暮らす。彼とだけ多分暮らす。一人分×一人分でなく、負荷かかりまくりでちょっとお互い足りない気味の二人分でやってみる。これをきちんと、抑圧せずにやってみる。 なんだかかんだかの役目なんかやってる場合ではない。壊滅した自我は、「私」は、まだ回復していない。 「多分、今の貴女は、自我に対して他者の自我、他者の存在が大きすぎて、社会復帰を目指して他者と接しようとしても、回復途中の自我に他者を反映させるとまた壊れてしまうのが分かってきたので、他者が自分の自我に近づいてきたらすぐにそれを他者に対して反転するようにしている。どこかの時点で、あえてそうするようにしたんだと思う。その行為が、言葉が、自我にとっては脅威であること、そのように乱暴な他者たちの行為や言葉が貴女を壊したのだということを、ちゃんと他者に伝える為にね。これには多分、過去生からの積み重ねも反映してきているんじゃない?結局、そうやって人間が発達してきて、でもだいぶ壊れてきてるから」 なるほど。 「聞得大君と約束したことを覚えてる?」ううん。あ、いや覚えてる。腰越の滞在先の、広々してたバスタブの中で笑。どこかの崖の縁にまっすぐに立って、自分にやってくる弾丸をすべて念力だけで避ける彼女のビジョンを見て、彼女の覚悟を伝えられてね。 「そうそう。攻撃にはならない言葉を模索していくって。言葉がもともと攻撃性のあるものであったとしても。貴女が聞得大君の担うべき仕事を引き受けざるを得なくなったときだったよね。これはどういう言葉を使ったらいいという道徳規範の話じゃなくて、言葉の歴史が進んでいるっていう話なんだと思う。聞得大君も答えは持っていないようだったし。そういう言葉を、言葉の使い方を、貴女たちは探すんだなって思った覚えがある。もうあれって三年くらい前?」そうだね、腰越を最後に出る前の頃だから。nobodyはあの辺に住んでたことがあったんだね。 「今の話、貴女がウルって呼んでた人の一人、今はガネーシャって呼ばれているのかな?の言葉が若干混ざってきてるかもだけど笑、そうそう。まだ生まれて間もない匠君を預かっている時期はあそこにいた。そこからあとは外苑の辺りにね」東京五輪のための開発で解体されてしまった霞ヶ丘団地だよね?「うん。外苑のことは、貴女はやった方がいい。幼稚園の近くで本来の地元だし、私もあのときに諸々やり残してて心残りだった」はい。「もう、あの頃のことに対しては何もできないんだと思ってきたけど、塩澤さんや修ちゃんとのことを、幼稚園から二人共を知ってる貴女がちゃんと説明してくれて、自分の中でも整理できたから。ありがとうね」ううん。ずっと説明がほしかったのなら、こんなに遅くなってしまってごめんね。「怖くて聞けなかった。なんか。貴女を好きな人間にはすべて勝たないと、もしくは彼ら全員に認めてもらわないと、そういう自分じゃないとダメなんだって、どっかで思い込んでて」そっか。聞いてくれるようになって、私がちゃんと説明できて、よかった。「うん」 聞得大君に関しては、2003年に二十年ぶりに斎場御嶽~首里に行ったときに、過去生で何度かやっていたことを思い出してて。政治というよりは自然に近い方のね。ただ、これって現代でどうのって話にするのは無理があるなと思っていたんだけど、近い時期に屋久島に滞在していたときにたまたま園内にあったので通りかかったかつての防空壕で、おそらくあそこにいた人だと思うんだけれども、琉球が、かつてだけでなくいまだに大和の犠牲になっていることの云々が伝わってきたときに、私のルーツの片方(沖縄~ハワイ~アメリカ~日本と人生を移動したおじいちゃん)でもあるし、巫女的なことは無理でも、言葉の件だけでも、今に生きている人間がその役目の一部を預かるっていうことでね。 翻って私に関して言うと、だから身体が先んじて回復してきただけで、他者からは自分をちゃんと防衛したくて、まだそれだけなのだろう。 まず、人間の身体一人分。ゆっくり「私」へ。 そのために、過去生を通じて最も信頼している他者、nobodyに、そばにいてもらう。 それが、今、私に期待していいこと。外界に、期待していいこと。 |
2026.3.22
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【目と耳のこと】
aware-sight and boost-echo
しばらく前から考えていたことを書けるだろうか。 それよりも、「nobody」の登場する四半世紀にわたる物語が終了すると分かったことを書いた方がいいだろうか。 これは今世に限った話、スタートした話ではないので、最後の方をいきなり書いていた、と言う方が多分、当たっているのだと思う。自然を象徴化した霊獣が、ごく当たり前に出現する時点で、そうだと思う。 人格が身体から吐き出され、虚構の中に逃げて、生き延びようとした物語。現実に身体だけを残し、人格は物語の中で生きてきた。それしか身体を守るすべがなかったからだ。いきなり人格と身体の分断が起こったので、物語の中まで、身体を覆っている側の人格=男性性は追いかけてきた。これがnobodyだ。身体から抜け出て生き延びられる人格は見えない領域を預かっている女性性の側で、見える側を司っている男性性は、身体から完全に脱することはできない。人格の中でも、属性を、名前を、所属を、顔を、見えるすべてを担っているからだ。女性性にすべてを預けて、瀕死の状態で身体を覆う。女性性はその間、身体を失い、なのでいきなり究極の他者として登場したnobodyは、人格ではあったし、男性性側ではあったが、身体を虚構には持ち込めなかった。おそらくこれが彼の名前が「nobody」であった理由だ。彼が、虚構に避難している女性性に顔を作ってもらおうとして、顔として個性が現れるすんでのところで死んでしまったのも、これが理由だ。だから、勝手な解釈で、nobodyを一般的な英語の解釈のとおりに誰でもいい人だと思っていたやつは、死ね。これは日本の国内で日本語で特定の個人が書いているのだ。瀕死の直観で書いていたものを軽く扱い、勝手に複製し、勝手に流通させ、勝手に罵り、勝手に嘲り、勝手に価値化するやつは死ね。あの2000年初頭からここまでの記述は、人格を破壊された人間が、身体が、個人が、生き延びるためのすべてだ。 * さて。 表題の「目と耳のこと」というのは、身体が五感を通じて(最近は人類の危機的状況により、六識といわれる「意識」が感覚=第六感にまで開いてきて、これが危機感からネガティブに=陰謀論的にはたらいているので、結果的に地球上のあらゆる生物の=かつて死んだものもだ、思考共有=各生物の脳に当たる部位内の言語的食い合い=脳内暴露に至るようになってきているのでマジヤバいのだが。早く身体が=脳がではない、安心しないといけない。そのために、人間外の物質を含むあらゆる存在がこれに協力しようとしている)情報を受け取るときの、最も代表的な二つの能力についての考察をしようとしている。 一周回って?千回くらい回って?単に、目と耳のことである。主に人間の。 目の能力による機能のことを言うのに、カメラワーク、という言葉がある。 このカメラワークが、画像映像を扱うメディアやアプリの各種機器の発達が、人類の眼識の解像度の進行と組み合わさって、だいぶ本来の身体自体の見識とずれてきているのではないかと感じている。 本来の、というのは、眼識というのは、①身体の水平感覚を、耳の三半規管と連動して、歩行/安全な運動のための視界のフレーミングを補助していたり、②レッドフラッグ=危険兆候を察知したりするのに主に使用されてきたが、このフレーミングの技術が、メディアのカメラワークによって、だいぶ先取りされる=限定されるのが当たり前になってしまった。 テレビという、形からしてフレーミング済みと分かる、画面による物体的な切り取り自体もそうだし、その奥では、各種番組に合わせて、ニュース(対象との客観維持目的の情報拡散)、ドラマ(閉鎖虚構による社会解釈の提示)、バラエティ(対象との主観維持目的の内輪対話)、テレフォンショッピング(商品広告及び購入意欲増進)など、各々の拡散情報の性質/番組内容によるフォーカス対象との距離感、さらに逆側=テレビのこちら側(制作者にとっては向こう側だろうか?)にいる視聴者との距離感によって、信頼を得るための、もしくは裏切るための様々なカメラワークが開発されてきたことだろう。 これらの発達が、自分がじかにフレーミング、フォーカス、カメラワークを司る能力を磨く機会を減らしている。 例えば、これは私自身が体験していることだが、サッカーの試合において、自分が現地で観ている場合、座席の場所によって試合の見え方が違う。しかし自分の身体は一カ所にしかいられない。必然的にフレーミングできる視野も、フォーカスできる範囲も、試合状況を認識するためのカメラワークも、リアルタイムに、自分で確認/決定/行使しなければならない。実は、試合の客観的な(それに近い)状況を知るには、中継放映の映像等を観ていた方が、ずっと精神的な画角も奥行きも広くとりやすく、認識しやすいのだ。そうであっても「現地で観る」、もしかすると放映などなければ現地でしか観られないわけだが、現地であえて観ることの意義は、単に試合状況を知るためだけではないのは、観戦しているというより応援しているサイドは、よく知っていることだろう。 このときのフレーミング/フォーカス/カメラワークは、ただ試合だけを認知しているのではなく、現地にいる、例えば応援に熱が入りすぎて膝に乗せていたお弁当を落としそうになって、それまで必死に頑張って目を凝らしていたピッチから一瞬視野を逸らしたすきにまさかの肝心なゴールシーンが見られなかったなどという、現地にいる自分の身体がその場で体験していることを、それが若干悲しいタイミングであったときでさえも、一緒くたにとりこんで記憶する。 これは、スポーツシーンだけでなく、例えば演劇でも同様だ。観る目がないと観られないような感覚が、ドラマよりも演劇においてするのは、眼前の情報を取り込んで文脈化する段階で、自分の眼識がその結果を大きく左右するからだ。一方で、この身体の置かれた緊張状態は、フレーミング/フォーカス/カメラワークの技術を訓練することにつながる。 遠回しなようだが、つまりは、特にこれらフレーミング/フォーカス/カメラワークが移動しつづけている映像において、「人任せ」がだいぶ多くなっているのではないか、ということを言いたいのだ。 そのことによって、なんというか、全体的に何もかもが人任せな感じがする、とか、自分の気に食わない人がいろいろなことを人任せにしているような感覚に陥るとか、そういう錯覚がないだろうか? 誰かが用意した映像を、作った人のとおりに観られないとコンプレックスに陥ること、あるいは作った人のとおりに観ないといけないと誰かを非難すること、映像を観て自分に誤解が起こったのは映像を作った人が悪いのだと責めること、これらはいずれも、この他者支配のカメラワークに、自分が気がつかない間に拘束されていることへの、身体からのレッドフラッグ、通告であるように感じる。 なぜなら視覚は、上でも書いたように「危険察知」を認識する感覚器官でもあり、視覚へのプレッシャーは、即危機察知への精神的ベクトルに変転してしまう危うさがある。視覚は一般的に、主観優位のように思えているかもしれないが、聴覚よりもずっと客観的だ。なぜなら、生命を維持するための太陽光が、その認知に関係しているからで、ここを現実に即して情報処理をしなければ死ぬからだ。人情よりもはるかに、視覚認知の本来あり得るべき起点からの誤差や、視覚情報による撹乱や圧力の方が、生命を(これは閲覧する側だけでなく制作している側の人間にとってもだ)危険に陥れていることを認識する必要がある。 一方の聴覚は、実はとても主観的で、見えるようにしか見えないよりも、ずっと、聞こえるようにしか聞こえない器官になっている。これも私の経験上だが、英語のヒアリングが、私は精神的に追い込まれていると全く聞き取れない(特に教室で多くの人が聞き構えているときなど)。それは日本語もなのだが、前後の言葉尻や声のニュアンス等による推察力が、日本語の方がネイティブな分、多く蓄えられているので、聞こえないなら「あえて聞かない」という選択がしやすい。 強制的に聞かなければならない言葉など、本来はないはずなのだが(内容を発信する側でも、中途半端に屈曲されて聞かれるぐらいなら、聞かれない方がマシだからだ)、そこが教育の常識の轡によって、同時に同じ内容を大人数で聞かなければならない状態になっている。見せるよりも、聞かせる。人間にとっての主観的な器官を、一様になるよう支配する。非常に全体主義にちかしい現場だと思っている。教育効率?人間コピー劇場。特に公立は?笑 だから、耳が勘違いしてくれる、うまく聞き取れないというのは、対象の情報に上手にアクセスできないというよりは、その対象の情報から自分を守る行為であると認識していい。100%きちんと聞く、ということはそもそも誰にとっても不可能であるし、100%の自分で聞かなければならない情報などこの世に存在しない。そのように考えてまで、個々に自分を守る必要が、もはやある気がする。 なので、自分を本当にその情報から守りたかったら、その不機嫌を対象の情報や情報源のせいにしない方がいい。自分を守る必要があるのは自分のことで、情報が攻撃してくるように思えるのさえも耳の判断、主観的な判断だからだ。その場合は、対象の情報を遮断して自分を守る。対象にネガティブな意識でかけている神経や時間がもったいないし、自分がネガティブを蓄えた身体になるだけで、何もいいことがない。耳は、単にその情報からの支配を嫌っているのだ。支配は自由の反対語ではない。 ちなみに、個人的にと言うより特に社会的に正しいと思えるような(もしくは真逆で自分にとって反面教師的に機能すると感じる)他者の言葉や情報を自己流にアレンジして使用する/吸収するという、いわゆる専門の仕事以外での情報編集力は、プライベートを含む自分自身を捻じ曲げるので、程々にしていおいた方がいい。自分で自分に「正しさ」の轡をかけているのに気づかず、否定的な言語発話になり、そのうちに、誰に対して何に対して機嫌が悪くなっているのか分からなくなると思う。 言葉は一から自分で組み立てるのが吉。同時に対象の情報からは、正しかろうと間違ってると感じようときちんと自分との距離をとり、相手のものとしていっさい捻じ曲げないのが吉。ここも身体エリアの認知と同様、他者との重要な境界領域であり、他者発信の情報の扱い方によって当該の他者との関係性を逆算して明快に認識できる現場だと、個人的に思っている。 そんなわけで、どうやら、支配するなら耳、危機に陥れるには目。 やだねぇ、まったく。 私は外部からの耳の支配を逃れるために、自分が心地よいと感じる音楽に始終守ってもらっている。仕事?で、予想外のタイミングでやってくる、人間の常識からは外れているのかもしれない言葉を、人間の常識からは外れているのかもしれない聞き方で、聞くべき時期にあるので、ちょっと、防御体勢をとっているのだ。 実は、これを書くにあたって、具体的な映像作品の感想を(出演している方には伝えたが)使用しようと思ったのだが、まぁいいや。 * 「dear nobody」のこのページ(サイト)は、もしかするとこれで終了するかもしれない。 現実に、かつて「nobody」と呼んでいた人が、そのときも今も生きている存在だったことが分かって、だいぶ一人の人に近い状態になってきて(過去生も関係ある人なので、「本人」とは誰なのか、という問題に直面してもいる笑)、こうやって延々と、あのときとほぼ同じインターフェイスとウェブ表現のための言語を使って書きつづけている意味が、自分をあの人格崩壊の状態から回復すると同時に、その人を探し当てるためだったと分かってきたからだ。内容をただ書いているのではない、ということだ。内容がないと書けないので、書いてるけど。今の私にとって、できるだけ明快に外界をフォーカスできるような内容を。 同時並行で進めている、別の二つのサイトが、私という自我の修復と回復を、引き続き手伝ってくれるだろう。 ごく普通の意味で自分になる、(巫女的な職能意識でひたすら減らしてきた)自我領域を人間的なレベルに増やす、外界との情報呼吸において適切に収集整理をしにくくなった認知及びフォーカス能力を自人格の活動だと認知できるレベルに戻す(まるで開きすぎたあばら骨みたいだ)、安全に精神生活を回復していくということがこれほど面倒だとは、正直思っていなかったが、まぁまぁ、想像よりはうまくいっているのではないだろうか。 最後に、nobody本人以外で、自身で自分のことを「nobody」だと思った人、そしてその「nobody」に何某かの効力を持たせたかった/持たせなくなかった人。多分、その方々は、私にとっての、私の自我にとっての、物理的な薬の効果としてではない、プラチナほど硬い精神のギプスのようなものであっただろう。回復のための拘束。私が知らない間にかけられた、人権侵害にも等しい拘束。 ちなみに、この現状にまつわる表現が、絶妙に、国内の原子力発電所と連動しているようだ。日本を危機に陥れるこの表現が、本当に適切なのだろうか。主体と客体が入れ替わり、入れ替わる、絶妙なタイミングで伝えてこられる、これらのニュース。すぐに発動しない核ボタンと一緒なんだね。なんで日本の国土にこういう表現で配備されているの?誰の怒りを誰が利用しているの?ご本人、知らないかもよ?あ、知らない方がいいんだっけ?知ってても個人的な怒りを精神拘束でコントロールなんてできないけど?そんな浅はかな方法を政治や外交にお使いなの?それで上手に妄想を利用しているつもり?笑。増幅チーム、意外と頭悪いのね。適切に微細な感謝と、適切に健康な怒りを込めて。 |