【2025 虹蔵不見】
にじかくれてみえず
2025.11.26
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【ダブルバインド・フルコースディナー】
thoughts of piece
~ダブルバインドによって起こった分裂状態は
最終的にデザートにたどりつけるのか(1)~ この人生で、30歳から50歳に至る約20年、統合失調症という前時代の典型的な精神病の判定を受けて、障害者として生きた。ある日、唐突に、私の中でメインだったとある症状が「苦痛」ではない、つまり苦しむべき「症状」ではなくなったことに気づき、私は「病気」ではなくなった。 それから5年程度が経ち、薬も通院も、ついでに障害者に該当することもなくなり、肩書も地位も名誉もない状態で、このような形での回復の前例があまりないこともあって、独自に生活回復のためのリハビリ期間を送っている。 過去生までさかのぼることになったこのリハビリも、佳境を迎えている気がしている。フルコースディナーで言うなら、最も まず、この病気に関して「前時代の」という言葉を使ったのは、精神病の推移には社会的な歴史との連動が見られるというのが通説だからだ。統合失調症=旧い呼び方では精神分裂病自体は、だいぶ太古の昔から常に人口の1%が罹ると言われているが、この病気が最も重病、症状が重かった時代は、心理学の発達段階と歩みを共にしていたようだ。 そして今は、統合失調症に代わって、自閉症スペクトラム障害(かつての自閉症が軽症化したものとしての名称)が最も扱いの難しい精神病とされている。「自閉症」としては昔から存在しているが、個人の精神が、主にコミュニケーションの側面において、外部との断絶を選んだ結果と言っていいだろう。 2018年頃、病気が治る前あたりに、反動でなのか(個人的に、統合失調症は「自開症」の一種だと思っている)自閉症的な方面へのシフトが起こりそうな時期があり、言語の使用を何度も絶とうとした。今後も、十分にリハビリが進めば、潜在意識が伴わない、つまり本意ではないがどうにもならないその選択が、再び持ち上がる可能性もある。単に、精神的限界が潜在意識の界面から常にアラートを出している状態だということにすぎないのだが。 (もちろんそんなことは社会的には共有しない。もう二度と精神系の薬によって苦しむのもそちら方面の医療に近づくのもごめんなので。あの世界は、周辺情報においても治療現場においても、病気だと認めるもしくはその判定が下った時点で、社会的異物や思想犯の扱いにも近い身体及び精神拘束のための実験奴隷に陥ると思わざるを得ないほど、レベルの低い業態にある。特に倫理道徳的な監視の強い、一億総ポリス状態の日本では。笑) 今後の状況としては、可能ならば、フルコースディナーをこのあとデザートまで進んで、精神的限界を常に意識しないですむように生きられることを望んでいるが、どうだろうか。 統合失調症の、というか、だいたいの精神的不調の基点となるのは、二つの異なる状態に追い込まれる「ダブルバインド」=板挟み状態だと言われる。巷でもはや、日本人全体の半数を超えているのではとさえ感じるアダルトチルドレンなんかも、このダブルバインドがネックになることが多いと聞く。 問題は、ここからストレスや思考停止状態による現実生活からの逸脱が起こり、遅れた自分を加速的に追いつかせるために、妄想による、普段は起こさないような過剰な現実補填を行ない、その不確かさがさらなる逸脱を呼び、そこを補填するための妄想を呼ぶといった負の循環が加速することで、この究極の現実逸脱に対する危機感が、統合失調症の急性期のような、いわゆる狂気的な世界を生み出すのだと思われる。 (ちなみに自分はそこに到達する前に、自身で情報からの隔離避難を行なったのが功を奏したか、当初から数年後に社会復帰への負荷をかけすぎて再発した経験はあるが、入院の経験はない) 世界的に二極化緩和が進んでいきそうな今の時代にあって、この「ダブルバインド」も、今後、何らかの緩和的解釈が可能になっていくのだろうか。 「デザート」と言っているのは、つまりそういう意味だ。 この「ダブルバインド」になりうる要素というのは、実際には多種多様で、その人が何のダブルバインドに弱いのかも、千差万別のように感じている。統合失調症が、もしくはそこから生み出される妄想が、内容・解釈ともに個性的だと言われるのも、ここが非常に個人的なレベルで調合されているからだろう。 私の場合、自分を障害者とすると決めたのは(病院の先生にはやんわり止められたが)、当時スタートした、薬代と通院代がかなり軽減される、条件によっては無料化される「自立支援制度」の手当てを受けるためで、またそれ以上に、当時の仕事の領域(書籍編集の、主に著者の原稿部分)が浸食されるように感じること、つまり自分に所属する情報が全公開されてしまっているという強迫観念的症状によって、この状況を危機的に感じたからで、精神的に逼迫した脳ながらも、当時所持していた原稿をすべて、それぞれの著者や版元に連絡を取って返しに行き、仕事を辞めた。この状況が事実であろうと妄想であろうと、簡単にはこの危機的感覚を払拭できないと感じたからだ。 たとえ「それは頭がおかしくなったからじゃない」というメッセージを暗黙裡に受け取っていたとしても、私自身がそのように認識し、そのように振る舞えなければ、現実との辻褄が乖離していくだけだった。 この、自らの職業をあきらめるという選択は、結果的に障害者になるという以上に、私から多くのものを奪った。奪われていたことが、今頃になってよく分かってきた、と言ったらいいだろうか。それはその剥奪された部分を、まさに回復しようとしているからなのだろうが。 この病気の期間を通して最も景気よく失ったのは、自分の「男性性」だったのだろうと今は考えている。 ついでに、私にとっての「ダブルバインド」は、女性性と男性性の間でのことだったのではないか、と考えている。 この、男性と女性という常識的な区分けではない、「男性性」と「女性性」とは何か、ということについてだが、私が失ったのは、それまでに自分の過去や経験を乗せた本名が担っていたこと、自分に付随していた肯定的なプロフィール、そのそれぞれのワードが担っていた所属感、役割、それによって遂行可能だったはずの社会的責任すべてだ。 いわゆる自分の外側を担っているもの、これが「男性性」として、その人の人格を守っている。 太陽系において、地球を金星と火星が挟んでいるが、古くから占星術では、内側である金星が女性的側面を、外側である火星が男性的側面を担っているとされている。これを「女性性」と「男性性」と言い換えて差し支えないと思うが、この図式なら、お互いの位置関係と守っているものがイメージとして分かりやすいだろうか。 もう一つ、図式として別例を示すなら、外側の「男性性」が三次元の現実、声や文字で示されるような領域で、内側の、いわゆる心や身体が「女性性」、心の声で扱われるような領域、五次元の領域とも最近は関連付けられているだろうか。 私が現在、ほとんど三次元領域での社会的活動を行なっておらず、家族や、主に過去の友人との縁も切り、自分の荷物、これは元の家にある古きものから自身の書いたもの、過去生の記憶までも含めて、整理しながら、片付けながら、捨てるものととっておくものを選びながら、未来のおぼつかない生活の日々の中でひたすら考えつづけているのも、この領域での葛藤をいまだに解消しきれていないからだろうと考えられる。 どうやったら、この二つの領域を保ちながら自分という存在や人格及び人権が守られるのかについて、発病当初、つまり25年前にすでに課題として持ち得ながら、いまだ明瞭な解決を見ていないということも、この引き籠もり状態を手伝っている。 さらに、私の中では、ちょうど発病した2000年初頭にネットの使用が個人レベルで一般化してきたことによって影響を受けた、自他意識や自他領域の混乱、もう少し具体性を加味するなら一人称や二人称等の「人称」意識に関する混乱と激震も、このダブルバインド状態に一役買っていた。 これらに対する答えは、おそらくこの状態を病気として長年にわたって経過し、そこに起こる違和を咀嚼しつづけ、治癒するためにこの問題から発生した苦痛を舐めつづけてきた自分の中にしかない。今は少なくともそう思っている。(つづく) |