dear nobody
【2025 蟄虫坏戸】
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アシタハココカラ





2025.9.28



【認知認識領域超拡大な理由として】
thoughts of piece


2019年に、ふと20年ほど続いた病気(統合失調症)による、情報全公開時代と私が呼んでいる苦闘の時期がやんだ。
このことは、その状態が究極的な危機感を脱した、というような意味にとるのがいいかなぁと思うのだが、とかく、「病気」というものは、本人が苦痛かどうかにその判定を依っているものなので、その危機感が緩んだ、というのはおそらく、私がこの病気の最もしんどい側面として理解していた症状への抵抗感が変化した、という意味で、病気が治ったと感覚しても、多分いいのだと思う。
その後、3年ほどかかって薬から(麻薬やアルコール依存症を抜けるくらいの苦闘を経て)脱したのだが、その頃から、いわゆるスピリチュアルと呼ばれる領域や存在とのアクセス、ヒト以外のものたちとの会話の(幼少期以来の)復活など、それまでの感覚では「認知領域の拡大しすぎ」、みたいなことが起こってる。
この状況について、もしかして?と思われるような理由があったので、書いてみる。
こうした感覚をいわゆる「お役目」と感じている人も多いと思うし、実際、顕在意識においてそういう人もいると思うのだが、私は別に、ここを目指して生きていたわけではない。幼少期のなにものかの感覚が抑えられたとして、地球ではだいたいそういうものだし、ねじ伏せられたような記憶もない。お役目といった何かに対しても、実際にもし私にとってもそういうものだとして、それは「目指して」目的が達成される類のものではないと理解しているので、と言ったらいいのだろうか。
それでまぁ、病気中に、脳内のどこかしらの領域が、薬による抑圧や抑制、鎮静によって抑えられていた部分があるとして、20年近く使っていなかったら、おそらくそこら辺の神経が、使われないことで「壊死」に近いことになっていたのかもしれない。それほど、日常生活で当たり前のようだったことが「まるっきりどうしていいか分からない、できない」という事態に陥っていた。
それが、薬をやめるうちに復活している部分があるとして、それはもしかすると、これまで使っていなかった脳内領域を積極的に使うことで脳内のエネルギーを増やし、それを壊死した神経系統に流し込むと、そこの部分の神経が司っていた能力が回復する、ということがあるのではないか、と思った。
これは、私が幼少期以来そこの能力を使っていない、もしくは一時期的に開きそうになったがまた眠らせた、ということが肝で、ずっと使ってきた人には、そうした回復効果はないと思う。
薬を飲むのをやめたら脳内のダメになっていた部分が回復する、ということは正直、脳内の神経系統では考えにくいと感じる。もうエネルギーがそこを流れない、流れるための回路自体が死んでいる可能性があるからだ。
ずっと眠らせていた部分(つまり一時は使っていた、ただし自他ともに意図的でない理由で使わなくなった部分)を使うことで、脳内の別の場所にエネルギーを爆発的に、もしくは自分にとって病気のときとは別の異常な状態のメンタルによって必然的に増やし、壊死している部分に一挙に流し込む。これがもしかして、日常生活を穏便にスムーズに回復するための方策として、意外に効いているのかもしれない。
まだ、日常生活のための諸々の感覚が完全に回復したとは言えないが、回復したなら、やはり当初の予想通り、この能力は治まっていくのだと思う。逆に、回復するまでは必然や天啓と感じるかのように使われていくのかもしれない。
ただ、私個人としてはあくまで回復のために、イレギュラーに使われている脳内領域であり、能力なのではないかと思う。これはだから、一般論ではない。20年間、精神病に処方される強烈な薬を飲みつづけたということは、精神病を患うこと自体の数倍、病的な状態に落とし込まれる、地球は、否、今の日本はそういう社会だからで、私はそういう待遇でこの病的期間を生きてきたからだ。
同時に、身体が薬を拒否しはじめて症状が治った、という現象もまた紛うことなき事実で、しかもそれに連動していわゆるヒトの身体からの拡張領域にアクセスしはじめたというのも事実なので、そこを基点に考えるとすると、こういった関連性を見るのも、一つの成就であり、稀なケースとしてもいいのではないかと思う。
ということは、この能力での成果に過剰に期待すべきでもなかろうし、回復が成ればそれで万々歳、儲けもんなわけである。ということは、この能力での成果を経済に変えるのも変えないのも自由ということだ。むしろ、変えてしまうと反動で、回復した部分が再び損なわれるかもしれない。
回復を目的に使用されている領域、もしくは能力であるならば、それもまた妥当な視点だと思う。
つまり、もう一度言うが、これはこれらの能力を使っている面々にとっての一般論ではなく、特殊ケースだ。
特別でなく、特殊。
そういう可能性を、自分に赦すこと。能力をすべて経済に変える必要はないということ。
なんだか、そんなことを考えながら、9月が暮れてゆく。