while looking for nobody
【ヨルとイオ】
pieces of the puzzle





昨年から書いていた物語的な連載【ヨルとイオ】は、服薬により長期間働けなかった気の毒な自分を、ちゃんと気の毒だと自覚することにより、社会的な現場に馴染ませようとして書きはじめたものです。もし書籍の編集者をやっていなかったら、どんな仕事をしていただろう?こうなったら思いっきり妄想してみよう、と思って、出身地にご縁があったように思われる、まさかの(笑)アイドルのマネージャー業務をやる自分を想定して、書いていました。そこから想定外の(汗)、過去生での悲しみ苦しみの、最後の毒出し期間を経て、自己解釈による治療も進み、この頃に紡いだフィクションが、思いも寄らないところが現実に近くなり、反対に虚構になるべきことは虚構になり、前編の続きが出てきました。ので、前編部分を整理して、読みやすくなるように、掲載時とは順序を変えたりもして、このページに取り出してみました。
【追記】作中、「ヨル」と書いていた名前の人は、元々は「リウ」でした。後半の「カイ」はそのままです。私が探していたのは、カイが「カイ」になる前の人(これが「ヨル」)でしたが、複数の人の存在が重なってきたときに、誰が「ヨル」か、「カイ」か、どのリウが「リウ」か、分からなくなっていました。ここにあるのは前半ですので、文中の「ヨル」は「リウ」に置き換えます。それに従って、「リウ」の名前についての説明に当たる一部分を書き換えます(初段2025.6.5の一部分)。ちなみに私が最近、現実で「リウ」というあだ名で呼んでいる人とは、別人です。また、私が「ヨル」に当たる人と二人一つの筆者名として使っている名前にもこの「リウ」が「人生」として含まれていますが、人間としては私も彼も、どちらともこの作中のリウとは別人です。(2026.3.31)





2025.6.5


1999年、ノストラダムスの大予言が大外れしたかのような、拍子抜けのミレニアムを、数年過ぎた頃のこと。

イオは、縁故の縁故の縁故ぐらいのツテで、あるアイドルの男の子に、マネージャーとして就くことになりました。グループのメンバーだけれども、一人でなんだかの映画の主演をやることになってしまい、スケジュール管理を兼ねてのお目付け役とのことでした。
言い渡された事務所の人の顔色から、イオがたまたま無職で、肩書きや家柄、つまり余計なプロフィールがなかったことが、この変なポジションに抜擢された理由のようでした。
ついでに、彼のグループの音楽エージェントの拠点がある青山で、イオが生まれ育ったという点も。

「リウです、よろしく」
と、上司から引き合わされて紹介されたあと、初めて二人になった席で、彼はまっすぐなキラキラした目で、握手を求めてきました。
そして、イオの顔が一瞬、硬直したのを見て、
「あ、今さ、僕のこと、『こういう奴だよな、アイドルってのは』とかって思ったでしょ!」
と付け足しました。
「うん」
とイオは答えました。
「そこ即答!?」
「うん。え?だって、その、かっこよさの権化みたいなノリ、アイドル以外できないでしょ?」
リウはそこで沈黙すると、数秒たって大笑いしました。
「は?」
「いや、なんていうか、はっきりした人なんだね」
まだ笑いが収まらない様子で、リウはグーで机をバンバン叩くと、
「最高!さすがあの人が見つけてきた人だけのことある」
「あの人って、私の上司のこと?」
「うん。個人的によくお世話になってるの」
「そう」
「じゃあさ、僕が何でこんなかっこいいか知ってる?」
「ん?知らない。ハーフ?」
「んー、まぁそこもよく言われるし、そうなんだったらそれもあるかもだけど」
「じゃなかったら防衛本能」
「え?」
「私ね、美人とか、かっこいい人って、防衛本能が強い人だと思ってるから。特に顔面は」
「じゃ、あなたも?」
「私は美人じゃありません」
「普通の人は、あなたのこと、美人だと思うと思うけど。今の、防衛本能の件も含めてさ」
「そう言われるけど、私はそう思ってないの。でも、図星です。防衛本能の件はね」
リウの口調は始終やわらかで、リウが柔なら、イオは剛で応える、そんな雰囲気で会話は続いていきました。
「その感じ、イオさんの、僕は多分この業界にいて、数年前に超えちゃったかも。超えさせられちゃったっていうか」
「そうなんだ」
「それで今はこんなヘラヘラしてるの」
「ヘラヘラしてるのをどうこう言ってないよ?よくそんな、やわらかく話せるなと思う。私は『かっこいい』というあなたの問いについて言ったの」
「うん、そっか」
「そこ超えたの、大変だった?」
「ん?まぁね。でも、それでいいこともあったけど、悪いことの方が多かったかな」
リウはそこで足でも組み直したのか、片方の膝が、ガンと机の下に当たったのが聞こえました。
「そっか」
とイオは答えました。仕事の相手とはいえ、初対面の人と不思議な話をしているなと思いながら。
「だから、余計なお世話だけど」
とリウは、まるで相談役の人みたいに両手を前で組んで、
「あなたは別に超えなくてもいいと思う。あなたはそのまんまの方がきっといいよ」
と言いました。
二人は、そこでしばらく黙っていましたが、イオが先に口を開きました。
「イオです。『一緒』って書いてイオ。生まれてこの方、誰とも一緒にいられないから、皮肉だと思ってるけど」
「はは、現実はともかく、いい名前じゃない?」
「ありがとう。内容はともかく、漢字と読みの対応は気に入ってる。リウは?漢字はあるの?」
「それ聞く?すごいよ?」
「どんなんよ笑」
「ほんとにね、すごくて。『人生』って書いて『リウ』。『一人』の読みの『リ』に、生まれるで『ウ』」
「うひゃ、かっこいいねー」
「そう?とにかく、すごいってのは僕にも分かる。でも、この芸名、本名じゃないし、フルネームで言う僕の名前でもないし」
「そうなの?」
「うん。いろいろあるの」
「そうなのね。いかにもいろいろありそうな業界だしね。追々分かることも、私のような門外漢には分からないこともあるんでしょ。特にアイドル側のことは、管轄外だから」
「うん、そのくらい割り切っててくれると助かる」
「よろしく」
イオは、さっきしそこねた握手をすべく、右手を出しました。リウが、さっき出した手とは逆の手でそれに応えたので、さっき出したのは左手だったんだなと分かりました。
リウの手は想像通りあたたかくて、イオはやっと安心しました。その顔をどう受け取ったのか、リウは、
「イオさんといるときは、あんまりアイドル顔しないようにするから安心して?」
とまたさっきの会話を思い出したのか、可笑しそうに言いました。
「うん、お願い」
とイオは言いました。
「真面目な話、そうしてね。仕事中に誘惑されたと勘違いすると、集中できなくて困るから」
するとリウは余計に笑って、
「ほんと面白い」
と横を向いて言うと、
「改めて、よろしく」
と最初のキラキラとは違う、静かな顔と目になりました。

こうして22歳のアイドルと33歳の新米マネージャーのコンビが、ここに爆誕したのでした。





2025.5.23


「こりゃまた今日はエライコッチャな格好してるわね」
「は?」
「え?」
「いいでしょ!全身裏原宿」
「そんな個性的な服、上から下まで着てどうすんのよ」
「着てるとみんなかっこいいって言うし、欲しがる人もいたらあげるし。あげるときのためにお店の袋も持ってるよ?」
「移動洋服屋かあんたは」
「あんたって呼ぶってことは、イオさん今日機嫌悪いの?」
「え?」
「生理?」
「うるさい」
「ビンゴ。大事にしてね?」
リウはそう言うと、こぶしでグーを出してきました。そこにイオもグーで合わせて応える、それがだいたいの、イオからの「ありがとう」だったりしました。
「どっか一点だけにしてみたら?」
とイオはグーを出したままで言いました。
「うん?」
「裏原宿。体型問わないけど着こなし難しそうなやつに見えるから。一度出かけると、いろんなお店の人に着てって言われるのかもしれないけどさ。かえって服に載せられてるテンションがぶつかってもったいないんじゃ?」
「それぞれの服の?」
「うん」
「そっか、そうかも。それぞれ別のデザイナーさんなんだしね」
「頼まれるのは分かるけども」
「好きなテイストの服を一応丁寧に選んでるから、一種の橋渡し役みたいなつもりでもいたの。リウさんが着てるのほしいって言ってくれる子たちもいるし」
「それ、ほんとにその服をほしがってるの?リウのものだからほしがってくれてるだけじゃないの?」
「あ、そっか。それじゃ服に悪いね?」
「私はそう思うけど」
「そっか、じゃ、ただやたらに着てるだけじゃない方がいいんだね。かっこよく着られるようになった方が、きっとちゃんと服の方を見てもらえるし、ブティックの人たちの宣伝になるもんね?」
「うんうん。これからの日本のファッション界を担うかもしれない、結構大事な潮流なんだから」
「なんだ、イオさん、こういうの興味ないのかと思ってた。さすが原宿育ち?笑」
「からかうな」
「ごめん、生理だった」
「あの人たち、私みたいな地味で優等生っぽく見える輩は嫌いだろうから近づかなかっただけ」
「今度一緒に行こうよ」
「いいよ」
「行こうよ。あなたが何言うのか聞きたいの」





2025.5.27


「唐突なんだけどさ」
と、仕事終わりの控室でお弁当を食べながらぼんやりしている時間に、リウが言いました。
「イオさんにとって、光って何?」
「うーん」
イオは自分で用意してきたお弁当を一緒につついていたお箸を持ちつつ、少し考えてから、思いついたもののことを話しました。
「うちとお隣の間に、小学校低学年くらいの頃だったかに建てられた街灯があってね。柱の部分が水色から薄緑色くらいの色で塗られた、電柱の横に立ったやつで、白くてやわらかい光の」
と答えました。
「それが光?イオさんにとっての光の代表?」
「うちの近所というか実家の前の道は、それほど広くないから昔はすごく暗くて。でも商店街から並行して一本入った道だから、誰が入ってきても、どのくらい他人か、怖い人か、分からないんだよね。下半身丸出しなやつとかに、門の中まで入ってこられそうになったこともある」
「うお」
「あれは怖かったなー。そういう存在の出没とか怖さをさ、たとえば、お巡りさんが見回ってくれてたらなくなるかというと、そうでもなくて、街にとってよそ者というか特殊な人がいたら、やっぱりそれに見合うよそ者や特殊な人が来るんだよね。人じゃなくても、禁止の言葉が書いてあったら、壊されるか落書きされて無効になる」
「まぁ、そういう街だよね」
「渋谷らへんよりはマシだけど、それでもね。そうした闇のようなものをね、最も静かに穏やかにしずめていく?よけていくのが、その街灯なんだなって分かったの」
「来んなってうるさく言ったら、かえってやられたり、うるさく言い返されるのと同じ?」
「うんうん。魔除けとかもさ、強烈すぎるとかえって闇を呼び寄せるじゃん?そういうものに対して、カウンターのようにはたらくものじゃなくて、静かに穏やかにさせるもの、それが私にとっての光。だから、目指すものでも輝いているものでも才能とかでも私にとってはなくて」
「イオさんの光はやわらかいんだね。光って、僕のイメージでは、結構強いというか、鋭いものだったから」
「そっちが普通な気がするけど」
「怖いのをやわらげるっていいな。そういう光がいい。怖いものが多いから」
「そうなの?」
「うん、小さいときからそう。そうは見えないでしょ」
「うん」
「あっかるい電灯つけて、えいやーってやってたけど、かえってその周辺の暗さに逃げ込まれてるような気がして、余計怖くなったりしてさ。それがさっきの魔除けの話と似てるよね」
「そうね、リウが怖かったのって、例えばお化けみたいなやつ?」
「まぁそんなの。いや、聞いてみたのはさ、ちょっと、スポットライトのこととかで、考えちゃうことがあって」
「歌?踊り?の仕事のことで?」
「うーん」
「いや、別に無理に説明しなくていいけど」
「うん。イオさんの光、聞けてよかった、ありがとね」
椅子から立ち上がって手を振って離れていくリウに、イオはふと付け加えるように、
「あのさ、リウはさ、その光に似てるよ」
と言いました。
「ん?」
「だから、今話した光に、リウは似てる。外見じゃなくて、言葉に出てるとこでもなくて、中身ね。リウに聞かれたから出てきたような気もする、私が前から感じてた、私の光」
「ほんと?だったらすごい褒め言葉」
イオが答えの代わりに出したこぶしのグーに、リウは振り返った姿勢と距離のまま、笑ってそれにグーを出すと、次の稽古場に向かっていきました。





2025.5.28


若い女性たちに絶大な人気を誇る雑誌から、連載の話が来ました。グループでの歌と踊りに加えて、単独でもビジュアルが先行していたので、自身の言葉でその偶像(アイドル)を補強し、さらに膨らませていく意図だろうと思われました。
イオは企画書をよくよく読んだ末に、事務所に直訴しにいきました。こういうとき、業界でのしがらみがない立場なのは本当に助かります。
「彼には、自分や自分の資質を守るための力が必要です。自分が自分がと語らせる力ではなくて、何かがあったとき、なぜそうなっているのかを周囲に上手に尋ねる力、教えてもらう力が、年齢が若いうちから必要なんじゃないかと思うんです。彼がたまに、『僕が全員の恋人になれるわけでもないのにさ』って言うのを聞いているんですが、それは間違いなく事実です。大勢の方々が目にするメディア上で、自分を主語として語ることばかり覚えては、好意の反動に当たるような反発の波が来たときに、単純に遮る以外の対抗策がとれません。それは例えば舞台の上や、カメラが回っているときの、お仕事場での周囲の皆さんや環境から、人知れず発生してくるものも含めてです。非常に貴重な、せっかくのご提案ですので、彼を主体にするのではなくて、彼が相手を主体にする練習として、彼が何かを聞きたい相手に聞きたいことを聞く体裁にしてはいただけないでしょうか。準備が倍以上になることは承知で、細かな手配はお手伝いします」
「それだけ、あの子に耳目を集める資質があると見込んでのことなんですか?」
「はい」
「確かにそのポジションを上手に覚えておけば、たとえ彼が直接相手に尋ねなくても、その効果が得られるようになるでしょうね。分かりました。先方にそのようにお伺いを立てましょう。失礼のないようにしたいので、交渉は私に任せてください」
「はい、よろしくお願いいたします」





2025.6.3


「お疲れさまでーす」
控え室に帰ってきたリウは、イオが主に打ち合わせでなく現場での仕事のときに、いつの間にか用意するようになったスープのエントリーの中から、
「イオさん、今日ポテトあったんだっけ?」
と言いました。
「はいよ」
イオは、テーブルに置いていたバッグから、ポテトスープの紙パックを渡しました。
「でさ、改めて聞くんだけど」
とリウは、ストローを刺してスープをすすりながら、言いました。
「うん」
「なにげに助かってるから聞くんだけど」
「うん」
「なんでいつも用意してるのがスープで、しかもこのラインナップなの?」
「え?うーん」
「もしかして、あんまり考えてない?」
「あ、いや、お腹空いたときに、少しの水分と、できれば野菜系の栄養と、ほんのちょっとの油分?そんなの入ってるのってスープくらいだなぁと思ってさ。固形系やお菓子は差し入れくるときもあるし、口にするのとか消化に負担のない少量で渡せる塩分補充系って、ポタージュ状態のスープくらいかなぁと思って」
「そっか。栄養で考えてくれてたの」
「うん、まぁそうだし、あの」
「あと素材とか色も?」
「そうそう笑。それはまぁサブでね、こちらからなんかって言うよりは、リウがなんか、素材やら色とかで、雰囲気的に補充したいものがあれば、そのように選ぶのかなって」
「季節ごとに少しずつ変わってるしさ」
「それは買いやすいから!笑」
「ポテトは白とかベージュ、トマトは赤、ニンジンはオレンジ、カボチャは黄色、ほうれん草は緑」
「緑は、他にもそら豆やらアスパラやら、いろいろ美味しいのあるね」
「ゴマが黒、ホワイトシチュー系がいちばん白」
「青はないです笑、基本食べ物の色じゃない」
「それはいいの。いつもここから出てく直前に、直観で選んで口に入れると、なんか気合いと安心が一緒に入る。帰ってきてから飲むときも、よしここで仕事は終わり、切り替えて頑張って帰るぞって笑」
「あら」
「すぐに飲めちゃう量で、しかも美味しい」
「よかったです、そこが大事。口に入れるものが美味しく思えてたら、たいてい大丈夫だから」
「うん」
「私が何かできるのは、この控え室までだからさ」
「そうしないマネージャーさんもいるけどね」
「あんまり、作品の現場のスタッフの人と同じようになるのは、好きじゃないというか。リウは私にそうしてほしい?」
「ううん」
「現場に行ったら、リウは出演者としての、その役の、リウでいいと思うの。私が混じると、私はリウにとっていつもいつもいる存在だから、壊しちゃいそうで」
「だから、いつも奥の方に立ってるんだね笑」
「うん、まぁ、一応、どこかにいることはいないといけないので」
「たまに確認してるんだけど」
「え?」
「あそこにイオさん」
「何の確認よ笑」
「いや、だから、確認。あそこにイオさん」
「だから何の笑笑」
「うーん、ちょっと困ったときとか笑笑。一瞬、確認するだけでいいの」
「ふーん」
「役に立ってる笑笑」
「恐れ入ります笑笑」
リウはそこで、ちょっと真面目な顔になって、
「あのさ、今度、多分、時代劇来るんだけど」
「うん」
「スープどうする?」
「あー?時代劇?どこの?」
「日本の、いわゆる」
「日本の。じゃあねー、そうねー」
イオはそこでしばらく考えてから、
「けんちん汁でもどかっと作って、にんじん入り、こんにゃく入り、ごぼう入り、レンコン入り、インゲン、お肉とかって分ける?」
自分で言っていて、最後はほとんど笑い出しながら、そう答えました。
「うはは、それ一応、和風!」
「そうそう、現場でお醤油味にも、お味噌味にもできるよ?笑笑」
「へぇー」
「具は小さめに切ったげる」
「何でそこで偉そうなの?笑」
「え?いや、さすがにポタージュにはできないけど、それ相応に手間かけるから笑」
「何で時代劇だと手間かけるの?」
「うーん、そうね、ちっちゃいときからずっと観てきてるから?最初期は、『半七捕物帳』とか『銭形平次』とか、おばあちゃんと二人で暮らしてるときに観てた。よよよいよよよいよよよいよい」
と、イオは、人差し指と親指を掛け声に合わせて動かしました。『半七捕物帳』でみんなの合図になっていた仕草です。
リウは、その仕草をいきなり始めるイオを、少し目を丸くして見ていましたが、それには何も言わずに、
「げ、時代劇マニア!?」
と言いました。
「違うわ!!笑」
「でも好きなんだ?」
「昔から家族の都合で一緒に観てただけ。『水戸黄門』、『大岡越前』、『暴れん坊将軍』、大河も」
「じゃ僕、苦手意識、持たなくてもいいね!」
「は?」
「イオさんが得意だから」
「あのね、観てただけだってば」
「いいの!協力してよ、マネージャーでしょ?」
「はい、そこは間違いないです」
「よろしい。さて、帰る!」
リウは、スープの紙パックを景気良くゴミ箱に投げ込むと立ち上がって、ニコニコっと笑ってイオの前に来ると、いきなり握手をして、その手を上下にぶんぶん振ると、丁寧にお辞儀しました。





2025.6.10


「イーオさん、何読んでるの?」
「え?!」
読書に集中していたイオは、リウが近くに来ていたのに気づかず、必要以上に驚いてしまいました。
「ごめんごめん、驚かす気じゃなくて」
「ううん、いいよ、私、集中すると全く周囲が聞こえなくなるたちで。えーとね、この本はね、『七つのチャクラ』、『魂を生きる階段』」
イオは、本を開いたところにある表紙を出して、そこに書いてある文字を、律儀な様子で読み上げました。
「『魂を生きる階段』ってすごい言葉だね。で?チャ?」
「チャクラ」
「チャクラ?何語??」
「ん?何語だろ!サンスクリット?待って、多分そう」
イオは、自分のノートを取り出して確認しました。
「それって古いインドのあたりの言葉だっけ?」
「うんうん」
「面白い?」
「うん。ってかね私、お腹がすごい緊張しちゃうときがあって、しかもなんか、ものすごくそこが何か言いたそうでさ、その原因をひたすら調べててたどりついたの、チャクラの概念。身体に縦に配置されてる7つのエネルギーセンターって、だいたい説明されてるかな?」
「へぇー。じゃ、それぞれ役割が違うってこと?」
「うんうん」
「僕さ、ちょっと身体鍛えようと思ってて。身体のこと知りたくて。そういうこともきっと役に立ちそう」
「文庫だし、すぐ手に入ると思うよ?それとも買っておこうか?」
「うん!お願い。ここしばらくはスケジュール混み混みで、自分の用事する暇ない感じだから」
「うんうん」
「きっとさ、身体が、もう少し気にかけて?って言ってるんだよ、イオさんに」
「うん、頭でっかちだから基本、私は」
「それはそれでイオさんらしくていいけどさ!お腹が何を言ってるか、うまく聞けるようになるといいね」
「うん、ありがとう」
「そのブックカバー、きれい」
「ん?あーこれね、和紙。富山のだったかな?」
「おー、いい感じのザラザラ!」
リウは、きれいな指を伸ばしてきて、イオが手にしている本のブックカバーの部分に触りました。
「いつも持ち歩いてたらぼろぼろになっちゃって笑」
とペラペラ、中をめくりました。割と分厚いその本のページの端っこは、全体にだいぶもう、すり切れかけていました。
「もしさ、まだ全部読んでなくてもさ、その本、イオさんにとって大事な本なんだね」
「うん、多分、ずっとね」
「え?これ、医療の本でもあるの?」
リウは、さらにイオが開いていたページを覗き込んで、とても嬉しそうに言いました。
「うんうん」
「ますます読みたい!」
「リウ、お医者さんに興味あるの?」
「え?僕なんかが興味持てるとこじゃないけど。ろくに学校も行ってないし」
「そんなの関係ないよ」
リウは、ちょっと気弱な感じになって、そこでしばらく黙りましたが、
「なんかね、人とか、人じゃなくても、目の前の何かが元気になってくれるのが、すごく」
と言って、また止まってしまいました。
「ん?すごく?」
「ううん、別にいいの。でも、その本読む。読みたい」
「分かった、何か、リウと仲良くなってくれるのに来てもらおうね」
「ん?」
「本もそれぞれ違うのよ、一冊一冊」
「そうなの?」
「それもご縁なの。勝手にそう思ってる。だから、自分で探して届くやつがほんとはいいけど、私経由でも大丈夫だと思うから。紹介者だし」
「もしイオさんが手に入れられなかったら、そういうのが働いたからかもね!僕が出会う方がいいんなら、そうなる。そんな感じ?」
「うん」
「そっか。全部コピペだし、おんなじなのかと思ってた」
「リウの連載が載った雑誌だって、一冊一冊、届く場所、人が違うし、別の場所で保管されるし、別々なんだよ?」
「だとしたら、なんか、僕、もしかしてとんでもないことになってる?」
「ん?まぁね。でも、それがリウの職業だってことだから」
「気をつけよ」
「何を」
「うーんとね」
リウはそこでいったん斜め上を向くと、
「分かんない!」
と半分叫ぶように笑いました。
「よろしい!」
と、そのリウのかぱっとした笑顔と声に向けて、イオも正直に言いました。こういうリウだからこそ、この役割なんだなきっと、と思いながら。




2025.5.22


リウは、アイドルの本業以外にも、俳優としてだんだん認められるようになってきました。イオの目から見ると、割とリウの経歴や性格にとっては挑戦状を叩きつけられるような役が多かったのですが、リウは「僕、まだ若いしね」と言って、それに応じつづけたのが、功を奏してきたようでした。
これらのやってくる役には、事務所の力もしくはさらに別の力が働いてきているのか、マネージャーとしてのイオが何かをさしはさむことは、連載のときとは違って、一切許されませんでした。
そんなリウの努力が実った、ある映画作品で、リウは初めて俳優として大きな賞を受けることになりました。リウはもう、大喜びで、イオのところに報告にやってくるなり、小学生の運動会で踊るやつみたいな、フォークダンスの歌を歌詞なしでふんふん歌い出すと、「はい!」と言って、そういうのが全く踊れないイオの手を取って、楽しそうに踊り出し、そのご機嫌さがうかがいしれました。
なぜかこうした情報が回るのが、マネージャーのイオより、リウの方が早いことに、若干の疑問を持ちながらも、「よかったね、頑張った甲斐あったね」とイオは、フォークダンスの最後のお辞儀だけはちゃんとして、「おめでとう」と言いました。
けれど、それが公式に発表されるのとほぼ同時に、リウはその受賞を辞退しなければならなくなりました。それは完全に事務所の意向で、事務所の他のメンバーとの兼ね合いからとのことで、リウのショックたるや、その話を聞かされたすぐ前に食べていたものを、すべて吐き戻してしまうくらいでした。
この話すら、イオよりもリウに先に通じており、その件も含めて、マネージャーとしての彼の健康維持のためにも、リウに強烈な話が自分より先に届くのを制限してほしいと、イオはイオを雇ってくれた上司に、直談判に行きました。
「どうやらここら辺からは、アイドルだけの世界とは違って、日本にとってのあらゆる制限の理由になりえているルール、つまり年功序列の波がやってくるようなのです」
と上司は、緊張した面持ちで話してくれました。
「アイドルや歌い手というのは、基本、頑張ったらご褒美がある世界です。なぜなら、そのことが、応援してくださる方々を喜ばせることになり、その達成によってその方々のこともアイドル側から応援することができるからです。でも、演技の世界、俳優業では、確かに違うわね?アイドルはいつも自分の役をやっていますが、台本のある作品の世界では、別の役であることが大半です。そして台本の役は常に、作り手の方々の側からいただくものですね?両方とも、たとえ演じているのだとしても、大きく違うのだということ。今回のことは、自身の人気を商売とする二つの業界の、衝突とも軋轢とも、言えることなのかもしれません。だから、我慢しましょう?リウのために。彼の未来のために」
イオは、淡々とした上司の言葉を聞いている間に、泣き出してしまい、その後は嗚咽をこらえるので精一杯でした。イオは、学生時代に小劇場の演劇を、その場で配られるチラシを頼りに梯子するのが大好きだった時期もあり、「演じる」ということについての彼女の言うことは、よく分かりました。でも、やはり納得がいかなかったから。
上司の部屋を出て、廊下のひんやりした空気に触られたら、泣きつかれていることに気づいて、イオは、さてどうしたもんか、と思いました。泣いた顔でリウに会ってもしょうがないし。悲しいのは自分じゃなくて、リウの方です。そこでふとした思いつきを、決行することにしました。
数時間後、リウの本業の方の現場が終わるのを見計らって、イオは普段はそういうことはしたことがなかったのですが、リウを訪ねていきました。
リウは、イオを見つけると、「わ!どうしたの?」と言いましたが、イオが手に持っているものを見て、しばし絶句したままでいました。
「はい!」イオはつかつかと歩み寄ると、持っていた凄まじく大きな花束を、リウに突き出しました。それは、今回辞退しなければならなかった賞と関連のある色、花としては少し珍しい色の花を、ふんだんに使ったものでした。
「で、でかいねこれ」「10万つぎ込んだもん」「え?10万?10万って言った?10万円?」「だって。その色珍しくて、一本ずつが高いんだもん」「イオさん、そんなにお給料もらってないじゃん、いきなりそんな出して大丈夫なの?」「うるさい!貯金ぐらいしてるわ」「もうまた、肝心なところじゃないとこに向かって怒ってるし」「別に、そらしてるわけじゃないし、それにこれ、貢いでるんじゃないんだからね」「分かってるよ!そんな失礼なこと、イオさんに思わないよ。そんなこと思うような人間だと、僕のこと思ってるの?」「違うけど。念のため」「こんなおっきな花束、自分だけの移動なら電車乗ってきたんじゃないの?」「そうだけど」リウは、イオの返事を聞いて呆れたように、あらぬ方向を向いてため息をつきました。
(分かってる人には、ほとんど抗議活動じゃん)
リウは、電車の中で、不機嫌な顔で大きな大きな花束を持って立っているイオの姿を思い浮かべたのですが、年配のサラリーマンに「邪魔だ」と文句を言われて、苦笑いで首をすくめて謝っているシーンがそれに続いてしまい、突然、ものすごく可笑しくなって、それをこらえるかのようにくつくつ笑って、イオから丁寧に花束を受け取りました。
「ありがとう、いろいろ、ほんとに。怒ってくれたことも」「いいえ」「まだ当分怒る?」「まさか。今日は大金はたいたんで興奮してるだけ」「はいはい」「じゃあね、一日お疲れさま」「うん。イオさんもね」
まさにおそらく、怒ってるよりも、イオにしては世にも珍しい大金をはたいて興奮していたせいで、電車の最寄りではなく、隣の駅まで、イオは歩いてしまうのでした。



2025.5.23

「はい!」







2025.5.28


リウが所属しているグループは、元々体育館のスポーツとご縁があって、そのせいか体育館でライブをすることも少なくありませんでした。
あるライブの日、リウに渡すべきものがあって、イオは珍しく、代々木体育館の近くで待機していました。ライブが行なわれている時間帯に、この場所、つまり原宿駅前の体育館側の敷地にいるのは、初めてのことでした。
ライブが始まった途端、ファンのものすごい歓声と曲の爆音とともに、なんと、イオが腰かけていたコンクリの塀がドラムの拍に合わせて振動しはじめました。それも、「爆音」に対して「爆揺れ」とでも言いたくなるような、凄まじいものでした。
代々木体育館の敷地からもう少し渋谷側に行った方には、典型的な音楽会場である渋谷公会堂があって、こちらも古くから多くのコンサートやライブを請け負ってきたところですが、収容人数の違いもあって、体育館を含む巨大なスポーツ施設が、そうした会場として使われはじめていました。
イオは、中学時代には、ブラスバンド部の渋谷区内の発表会で舞台に上がったこともありましたが、こうした爆揺れは、完全に初体験でした。
音響防音設備に優れた渋谷公会堂よりも、代々木体育館の方が、外に発するものが途轍もなくて、イオはどのくらいの影響があるのか確かめようとして、座っていた塀から立ち上がりました。
原宿駅側に渡る横断歩道まで来てもまだ、つまり、敷地の外の地面まで、確実に揺れていて、反対側に渡ったところでようやくそれほど感じなくなりました。
「すごいなー」とイオは、地面の安全性をいぶかしむ以上に感心してしまいました。
「これ、ライブに来てる人は絶対知らないよね」
だってみんな、始まったら会場の中にいるので。会場から出てきたときは、もう爆音は鳴ってないので。イオはちょっと可笑しくなりました。
そしてこの爆音爆揺れを起こしている台風の目の中に、リウもいるんだという事実、自分が会場の外にいて、なぜか打音だけが大きく聴こえる、聞き慣れたメロディが切れ切れに風に乗ってくるのを聴いているという事実に、イオは、リウとのとても不思議な距離感を感じるのでした。
「タケノコ族とか、もはや目じゃないよね。。」
イオはつぶやきます。
この横断歩道のある、代々木八幡に向かう通りは、その昔、毎週日曜日に、ここの辺りが歩行者天国で車が入ってこなくなる時間帯に、タケノコ族といわれる若者たちが、ラジカセやらを持って派手な服を着て、ブギウギやロックンロールな曲を踊り狂う人の輪で埋め尽くされることで有名な場所でした。
それからほどなくして、原宿駅の代々木側にくだったもう一つの、とても小さな出口だった竹下通りが、イオが小学校時代のほんの数年で、信じられないほど多くの、服や雑貨を扱うショップが店を構える、有名な通りに変わりました。



それまでも、原宿駅の脇にある明治神宮は、お正月には地方からも人が訪れるお詣り先でしたが、この頃からは若い人がどんどん増えて、三が日には大量の人が詰めかけ、参道から本殿までの待ち時間が長すぎて、地元民がお参りに行く気がなくなるほどの神社になりました。
表参道のケヤキ並木のイルミネーションが始まり、クリスマスあたりに大渋滞が起こることでも有名になるのは、イオが大学時代の頃でした。
表参道は、明治通りでいったん坂を下がって、また青山通りに向かって上っていくつくりになっているのですが、表参道を左右に横切る明治通りは、明治神宮側から見て右が渋谷、左が新宿に通じていて、道路としてはそれほど太い通りではありませんが、昔ながらの気が流れつづけていました。
ここを越えた青山通りまでは、少しのんびりした感じで、左手にはイオの実家や小学校、中学校、同潤会アパートなどがありました。
一方、表参道の右手は、原宿駅近くから中華料理店の南国酒家、米軍の方々が住まわれていたワシントンハイツ、おもちゃのデパートと言われたキディランド、中華系のお土産屋さんオリエンタルバザール、元々外国人の方々のための教会だからなのかそこだけ空気が違ってたユニオンチャーチなど、こうして書いてみると、意外に外来のものが道の手前に並んでいましたが、中に入ると、この地域に最も古くからある閑静な住宅街が広がっていました。
右側の通り沿いの日本サイドの大きな建築物というと、日本の代表的な女性デザイナーである森英恵さんのハナエモリビルが、表参道の青山寄りの敷地に、全面ダークな配色の鏡面仕立てでできたくらいでしょうか。
渋谷に抜ける、原宿テイストのお店が並ぶ裏道として後に有名になるキャットストリートは、明治通りから数百メートルくらい青山側に左右に伸びていましたが、これらの閑静な住宅街の脇にあって、元々は川を埋め立てた遊歩道に、公園の遊具が点々と並んでいる場所でした。
明治神宮及び代々木公園脇に台頭したタケノコ族の踊りのエネルギーや、リウのアイドルグループなど割と大きな音を扱う音楽アーティストの方々の爆音爆揺れのエネルギーは、イオの感覚的には、表参道のどちらかと言うと右側を、青山まで流れていました。
これに対して、イオはどちらかと言うと左側の地域で暮らしていたので、小学校時代に表参道で右側を、つまり明治神宮に向かっては左側の道路内を鼓笛隊でパレードしたとき(たまたま小太鼓だったので先頭にいたのですが)、演奏の緊張とは別に、表参道にいる感覚があんまりなくて、不思議に思ったのを覚えています。イオが車を運転しない人間だというのも、その理由の一つにあるかもしれませんね。日本の車道は基本、左側通行なので、車ならここをその通り、通り慣れていたはずですから。
後に青山通りに近い表参道は、海外の有名ブランドの店舗やビルが建ち並ぶ地域になるわけなのですが、これらはイオからすると、上記のすでにあった海外要素のエネルギーと和するでもなく、そもそもこの土地にあまりしっくりいっていないように思えて、仕方ありませんでした。
新しめなものならともかく、古い歴史を持つ高級衣料ブランドの感覚を定着させるには、街がまだ新すぎるのではないかなぁと思うのでした。明治神宮も、まだ100年に満たないお宮でしたしね。





2025.5.30


さて、ライブのお疲れ終わりに、リウに渡すものをようやく渡そうとリウの方に歩いていったら、リウがすれ違う瞬間にイオの方を見ずにメモをくれて、その雰囲気から、イオはだいぶ離れてからメモを読んだのですが、そこには、
「近くに事務所がライブ終わりに休んでいけるように借りてる部屋があるから、そこでいい?」
と住所と一緒に、管理人さんを通過する方法も書いてありました。アイドル側の管轄だったのか、イオはこの件を内部者としては全く知らず、マネージャーから何か手渡す一つでも、お芝居の管轄と違って、その方が余計な人に見られなくていいんだろうなと分かりました。
指定されていたのは割と造りのしっかりしたマンションで、無事に入室できました。イオが靴を脱いで、所在なく入口付近でうろうろしていると、リウも後から無事に部屋にやってきて、
「イオさんずっと立ってたの?せめて座れば?」
と笑いました。
「ちなみにこの部屋、みんな靴で入っちゃってるから、靴下汚れちゃうから靴履いて?」
「あ、ごめん!」
「いや、ごめんはこっちで。奥の方では脱いじゃう人も多いんだけど」
「つまりは、控え室とおんなじなのね。じゃあこれ」
と、とりあえずブツを渡して、帰ろうとすると、リウは部屋の一角にある、テーブルと向かい合わせに置いてあるソファーに先に座って、
「ここ出るの、もう少し時間空けてもらいたいから、どうしても嫌じゃなかったら座って?」
と前のソファーを指差して言いました。
イオは、リウのその真面目な顔を見て、これもまた何かの約束事なのだろうと、座ることにしました。
「ごめん、ほんとは乾杯とかしたい気分だけど、ここの部屋ではお酒禁止にしてるの」
と言って、冷蔵庫からお水のペットボトルを出して、イオにもくれました。
「そう」
「ここを使える他のメンバーはたいてい飲んでるだろうけど、そのせいで何かあると嫌だから」
「個人的に禁止にしてるってこと?」
「うん」
イオは、しばらくここで待つんだろうとは分かったのですが、あまり細かいことを聞く気もせずに、受け取ったペットボトルのお水をもらいつつ、リウがソファーに背中を預けて天井を見ているのを、あまり迷惑にはならないような視線で眺めていました。
するとこの近所だからなのか、なぜかふと、竹下通りで一瞬上を向いたときに見える、左右の建物の縁
や電線で小さくギザギザデコボコに切り取られた青空のことを思い出しました。
それと同時に思い出したことが、ちょっと若気の至りと言えばいいのか、可笑しかったので、
「ねぇねぇ、竹下通り全力すり抜けゲームってやったことある?」
と言いました。
イオは、自分の口から一度も言ったことのないワードがスラスラ出てきたのに、さらに可笑しくなりました。竹下通りで全力ですり抜け、までは言うつもりのことだったけれど、別にゲームのつもりでやっていたわけじゃなかったからです。多分、やや疲れた雰囲気のリウに、面白がってほしかったからでしょう。
実は、思ったよりリウに負担をかけるようなことになってしまったのではないかと、後悔しはじめていたのです。
リウは、
「何それ?」
と面白そうに笑って、こちらに乗り出しながら、テーブルの上の自分のペットボトルをつかむと一口飲んで、
「で?」
と笑った目のままで言いました。
「うん」
とイオは話しはじめました。
「大学時代ね、大学までの交通が、うちからだと当時の山手線しかなくて、原宿駅から行くんだけど、家からは坂を明治通りまで降りて、横断歩道渡って竹下通りに入るとさ、大学に行くぐらいの時間帯はいつ何時でもめちゃ混んでるんだよね」
「あそこ狭いしね」
「いろんな速度の人が歩いててさ、ここの地域のどこかのお店に毎日働きに来てるみたいな人もいるし、スカウトのためにうろうろしてる美容師系の兄ちゃんとかもいるし、もしかするとこの通りに一生に一回しか来ない修学旅行生の集団とかもいるわけ」
「うんうん」
「で。私は、大学に行くために、原宿駅に向かってめっちゃ急いでるわけね?」
「うん」
「そこでね、明治通りを渡ったところで、大きく一呼吸して、ほとんど息もせずに誰にもぶつからずに駅まで通り抜けていく、というようなことをしてて」
「息もせずに?」
「そうそう、当時はもっと痩せっぽちだったし、人の間をすり抜けるのが得意だったから。渋谷とかでもさ、人多いんだもん」
「なるほど。それはゲームというよりは、、なんだろ、ここら辺の街で地元民が生きていくための、知恵みたいなものだったわけね?」
「いや、知恵かどうかまでは分からんけれども笑、このいろんな目的で歩いてる人たちにね、どの速度でタイミングで歩いてる人にもね、できるだけ負担をかけずに通り抜けてくっての?なんか、それ目指してたの、修行のように」
「そうか、それ修行なのか笑」
「いや、今思うとなんでそんな気持ちで竹下通りに挑んでたのか、意味分からないんだけど」
そう言ってイオは、自分のことなのに声を立てて笑ってしまいました。リウは、そんなイオを見て嬉しそうに、
「修行って言うならさ、忍者の修行みたいじゃない?すり抜ける人がさ、森の中の木々みたい。しかも人は動く!笑」
「リウ、忍者って、現代ではもう死語なんじゃないの?」
「いやいや、イオさん知らないの?忍者は現役だよ!?」
「うそー!知らんかった、とんてんちんしゃん」
「え?」
「ごめん、YMO入っちゃった」
「YMO?お水で酔ってる?」
「んなわけあるか笑。かつてYMOがアルバム仕立てでやってたラジオドラマでね、有名なセリフなの!笑」
「イオさん、気に入ったCMも突然歌い出すし、そういうとこがいくら都会の人でも変すぎる」
「いや、あの」
「褒めてるんだよ?」
「は?」
「分かった。話の続きして」
「うん。なんかさ、あの竹下通りが一気に隆盛したときにさ、結構、同級生で地上げに遭って、転校しちゃった人とかもいてさ」
「あそこが学区域内なんだ?」
「そうそう、まぁ隣も混じってたけど、小学校も中学校も」
「そっか、あんだけいきなりお店建ったらそういうことにもなるよね、裏手もひたひたと開発されてきてるし」
「うん。でもまぁダイレクトにそれが理由ってわけじゃなくて。だって、その道に来てる人が悪いわけじゃないしさ」
「でもなんか、どうせイオさんのことだから納得いかなかったんでしょう?」
テーブルの上に両手を組んで、ちょっと上目遣いで言うリウに、イオは、よくお分かり、というようにニマッと笑いました。
「母親が仕事帰りにあそこ通ってるとき、結構暗くて怖いって言ってたから、うち全体としては悪いことばっかじゃなかったんだけどね。でもなんかね」
「で、忍者修行。笑笑」
「え?そうそう笑笑。大学2年のときに、うちの最寄りの表参道駅通ってる地下鉄のうちの、半蔵門線が伸びて東西線につながったから、もう原宿駅行かなくてよくなって、修行はそこで終わったんだけどね!学校に行くとかいう真っ当な理由なかったら、わざわざやらないからこんなん笑」
「いいな、僕やってみようかな、できるかな」
「踊りで鍛えてるし行けんじゃない?」
「よし!一個面白いこと見っけ!」
リウが元気にそう言ったので、イオはほっとして、
「そろそろ帰っていい?時間OK?」
と言いました。
リウは、後ろにあった時計で時刻を確かめると、
「うん。ありがとね、面倒くさいこと言ってごめん」
と言って、立ち上がりました。それでイオも立ち上がって、
「いえいえ、今日はアイドルの威力思い知ったわ。ライブ中、会場外でもすごい地面揺れてるし、避難所として近所にマンションだし」
と言いました。
「いいんだよ、こんなの思い知らなくて」
リウは、やや皮肉そうに笑うと、イオに近寄ってきて横に回ると、
「ちょっと栄養補給」
と言って、イオの肩に顔を近づけると、すんっと鼻から吸い込みました。イオはびっくりして、一瞬飛
びのきそうになりましたが、「栄養補給」と言ったリウの言葉を思い出して、これは栄養補給なんだと思うことにしよう、と考えました。
その様子を見て、リウは少し離れると、
「じゃあね」
と疲れが出たような顔で、手を振りました。
「ここからさらに時間空けないと、僕は外に出られないから」
イオは、その言葉を聞いて、まだ少し硬直しているのを、気を取り直してリウの方にしっかり向き直ると、
「うわ、そっか」
とやや大きめの声で返事をしました。
「この仕様だとそうなるよね。ご愁傷さま、お先に帰らせていただき、恐縮です」
そこまで声が出たら、いつものイオに戻って、
「明日からしばらくお休みだからさ、それで今日渡しちゃえばリウゆっくり休めるかなと思って。かえってごめんね?」
と言えました。
「ううん大丈夫、こういうの慣れてるし、明日そっち寄らなくてよくなって助かった」
イオは、「ううん」のあとに「大丈夫」と言ったリウに、部屋の中を見回して、可能そうなのを見てとると、
「今日、ここで寝ちゃえば?」
と言いました。
自分のことについて「大丈夫」と言葉にするリウは、たいてい大丈夫じゃないことが多いのを知っていたからです。
「うん、動けなかったらそれも考える」
イオは、リウが無理しないと分かったので安心して、いつも通りにバイバイと手を振ると、リウも、ほっとしたように手を振りました。
イオは、できるだけ静かに部屋のドアを閉めると、エレベーターのところで下行きボタンを押しました。
学生の頃、地元の密かな噂に聞いてはいた「マンション一室控え室説」は本当だったんだな、と感心しながら階下にたどりつき、マンションの建物を裏口から出ると、地元民しか知らないような、線路沿いに抜けるルートを通って、家に帰りました。





2025.5.27



夜の表参道のケヤキ並木の、同潤会アパートが建ち並ぶ、少し暗い道沿いの焦茶のパイプのところに、イオはリウと座っていました。
もうだいぶ深夜の時間で、人通りもほとんどありません。
夜の樹木からの空気が心地いい、イオが大学時代、家に帰りたくないときに、たまに座っていた場所でした。
二人はそこで座ったまましばらく黙っていました。リウのテンションが絶賛沈下しているので、沈黙を破るために、イオは何も考えずに出てきたメロディを歌いました。
「鎮まりませる大宮のー」
「何の曲?」
「ん?なんだろ?あ、えーとね、この近所にある小学校の校歌」
「は?」
「私の小学校の」
「なんかその古臭さ、君が代みたい」
「確かに似てる笑」
イオが笑うと、リウが少し力を抜いたように両手を組んで前に「うーん」と伸ばしたので、イオはちょっとほっとしました。
「夜のここの並木の空気って、すごいね」
「そうでしょ、昼間とは全然違うの。ケヤキたちから出てるの二酸化炭素だからね」
「植物は、昼は酸素をくれるけど、夜に出すのは、二酸化炭素なんだよね」
「だからその下にずっと座ってたら死ぬかなぁと思ったんだけどさ、別に死なない。なんか気持ちがいいだけで」
「うん、出てんの二酸化炭素だけじゃないんじゃない?」
「そうかもね!」
「寝る時間だよーな植物、起きる時間だよーな鳥たち」
「ん?」
「植物は、出す空気の違いで、人間は寝る時間だって教えてくれるし、鳥は早朝の必要なときにしばらくの間鳴いて、起きる時間って教えてくれる存在なの僕には」
「私もそうかも。植物の件はここでそう思ったし、鳥はさ、うちの近所で早朝にさ、宗教施設かなんかで低い銅鑼みたいなの鳴る時間があるんだけど、それと一緒に鳩がいつも何羽も気持ちよさそうに鳴いててさー」
イオはそこまで言って、ようやく横にいるリウの方を向くことができましたが、リウのかけている色の濃いサングラスがなんだかそこだけ不似合いで、
「どこか私が好きな場所連れてってってさ、何かあったの?」
と、とうとう聞いてみました。
リウはしばらく黙って考えているようでしたが、こちらを向いて、
「ねぇ、イオさん、ミサンガって知ってる?」
と言いました。
サングラスのせいで、リウの感情がよくは分かりません。
「うん?なんか、お守りみたいな紐のやつ?」
「うん。あれさ、作って?デザインは任せるから、お揃いで」
「は?」
「ちょっと、必要なの、お揃いの」
「はぁ」
「お揃いのするような相手がいるって示すことがね、ちょっと緊急で必要なの」
「あら」
「作れる?」
「小さい頃からリリアンやら刺繍やら編み物やらを、超テキトーにだけどやってきたから、図案があればできるかな?」
「よかった、一つはイオさんが持っててね。隠してでいいからしてて。お揃いの相手があなただってことは言わないから」
「うん」
「あんまり、説明しないでごめん」
「いいよ」





2025.5.30



「お腹すいたね、お昼なんか食べたいものある?」
打ち合わせに続いた撮影の時間が大きくずれて、食事のアポを取り直す暇がなく、イオはリウと現場から放り出されました。リウはここのところ、現場の都合でズレまくりのスケジュールにぐったりしていて、
「とりあえず」
と言ったまま、黙ってしまいました。
これは、判断力ゼロ移動力ゼロ、とイオは判断して、辺りを見回しました。
このスタジオは、電車の駅からもかなり遠い住宅街の中にあって、前を通っている道路もまっすぐ駅に近い方に通っていましたがそれほど広くなく、ぽつぽつと並んでいるのは、ごく地元のお店ばかりでした。
スタジオへの出入りを車両のみにすれば、どの程度の著名人でも大道具でも、あまり目立たずに動かせるので、その点では、少し離れたところに大規模な敷地を構えている、近所では桜の名所としても知られる某有名撮影所とは、かなり印象が異なっていました。
こんなことが言えるのは、実はイオは、今は実家を出てこの近所に一人で住んでいて、土地勘があったからでした。
突然、リウが
「うなぎ!!!」
と叫びました。
「うなぎうなぎうなぎうなぎ!!!イオさんうなぎ!ついでに!愚痴を聞いて」
イオは、リウにしては珍しい荒れた剣幕でまくしたてる様子に呆気に取られていましたが、何せイオの住んでいるアパートの目の前が、そのうなぎ屋さんだったりしたため、小さなお店でしたがお電話して一応、席を予約しました。すると、
「そういうことなら、店内は狭いですので、お持ちになりますか?」
とお店の方が提案してくださり、
「そこから歩いてこられるなら、いらっしゃる頃にはほぼできているでしょうから。たまにそちらのスタジオからそういうご要望もあるので、大丈夫ですよ」
と言ってくださいました。
イオは、ありがとうございますと言って電話を切ると、
「歩ける?」
とリウに聞きました。
「ほんとにそこのお店、狭いからさ。なんなら私がとって戻ってきてもいいよ?」
「ううん、散歩する」
「はいはい」
「でね、イオさんのアパートに行くの」
「は?」
「だって、僕の愚痴、あまり大勢に聞かれない方がいいから」
「そうかもしれないけど」
「住所、調べてあったもん」
「なに!?」
「怒んないで。うなぎね、ちょっとマジでトラウマなの。それで、いつかあなたに聞いてもらおうと思ってたから」
「くそー!」
「怒んないでって」
イオは、この状況に全き情報格差を感じつつ、久々のうなぎだし、まぁいっか、と思うことにしました。
部屋の目の前がうなぎ屋さんってことは、うなぎの匂いにだけは事欠かない生活だったわけなのですが、それで満足して、肝心のうなぎを食べることはなかったからです。
「イオさんはうなぎより穴子の方が好きなんだよね?」
とリウが言いました。
「うん」
とイオは答えました。
「うなぎ、油が多いから。穴子の方が淡白でさっぱりしてて好き。ちらし寿司にも手巻き寿司にも、普通、穴子でしょ?でも、別にうなぎ嫌いなわけじゃないから、今日は美味しくいただくよ!うなぎはね、肝吸いが好き」
「またマニアックなこと言ってからにもう〜。ありがと、付き合ってくれて」
二人は一本道をのんびり移動したので、果たして、うなぎ屋さんでは、ほかほかのうなぎとお手製のお新香と肝吸いを二人前、用意してくださっていて、それを持って、イオは自分のアパートに、リウを連れて帰りました。
ドアを開ける前に、イオはぐるっとリウの方を振り返って、
「何がどのように存在してても、いいことにしてちょうだい」
と言いました。
「何それどういう意味?」
「あんたのために片付けるとか、面倒だから」
「あ!『あんた』って言った!」
「今日は生理じゃありません。なんで私の住所をリウが知ってて私がリウの住所を知らないのよ!」
「これぞ芸能界における、情報格差のなせる技です!電話番号知ってるんだから仕事には問題ないでしょ」
「ふん」
イオは、そう憤慨しましたが、ふとリウは、自分の方だけが知ってることがあることを持ちこたえているのが、本当は嫌だったのかもしれないと、リウの芝居がかった言い方から感じました。こういう展開でこのように言えば、実際に情報格差が存在していることをイオに伝えられますしね。





2025.6.1



近所のファミレスで、イオが、リウでなく自分の作業に没頭していると、
「あの」
と声をかけてきた女子がいました。
声で女の子と分かるような可愛らしい声で、イオが顔を上げると、本当にそんな子が、ちょっとだけイオの方にかがみ込むようにして、そこに立っていました。
リウのファンの子だな、とすぐに分かりました。誰かは分からなくても、リウのアイドル管轄のファンには、ある一定の雰囲気の子が塊で存在していたからです。
その子は続けて、
「もしかしてリウのマネージャーの方ですか?」
と聞いてきました。
「あの、あ、グループの方でなく、お芝居の方の」
とも付け加えました。
「うん」
とイオは答えました。本来は正直に応えるべきか、もっと悩むところですが、イオは即答しました。
このファミレスは、スタジオ待ちと思われる子たちが、数名で待機していることがある場所でした。
たまにそうした子たちに遭遇するので、遠くから静かに観察した結果、彼女たちにとってはおそらくここが出待ちの前線か中継地点で、何か動きがあれば、他で待機してる子たちや現地に来られない子たちに、情報が共有されるのでしょう。
大人数で動いたり、滞在場所に迷惑がかかったりすると、微妙に常に実は同じグループのメンバー同士でも競争が起こっている推しの負担になる可能性や、下手すると事務所からファンのランクに影響するようなチェックが入るため、彼女たちは、お化粧や格好がどんなに派手でも、自分たちの行動にはとても気をつけていました。
そんな子が、お店の間合いをはかってイオに話しかけてくるというのは、ややただならぬ理由があるのではないかと感じたのでした。
「よかったら座って?」
とイオは、目の前の椅子を指しました。その子は、いったん周囲を確認したあと、その椅子に座りました。
「飲み物も持ってきちゃえば?あっちは他の子がいるから大丈夫でしょ?」
イオは、彼女の本来のテーブルの方をちらっとだけ見て、そう言いました。
「はい」
彼女は、自分のお水と飲み物を持ってきました。これでフロアの店員が、話しの途中で注文を聞きに来ることはないでしょう。
「さて?」
「はい」
彼女はしばらく黙っていましたが、
「これは告げ口とかではなくて」
と言いました。
「うん」
「もしかするとイオさんの方では起こってないことかもしれなくて」
「お芝居の方ではってこと?」
「はい。あくまで、グループと事務所のあたりのことじゃないかなって」
「だから私に話すのね?」
「はい」
「ゆっくりでいいから」
イオはそう言うと立ち上がって、ドリンクバーに行くと飲み物の追加を自分に用意して、席に戻りました。そして、
「その話ね、物語みたいにして話して?」
と、緊張しきっている彼女に言いました。彼女は、なぜかノートとペンをテーブルに持ち出していて、もしかすると声でなく、一部を筆談にするつもりなのかなとイオは思いました。
「事実としてでなく、誰かの物語みたいにして。それと、なるべく文字にはせずにね?」
「え?そっか。はい、分かりました」
そこから彼女はぽつぽつ、おそらく頭の中で、話したいことを物語風に置き換えながら、話してくれました。
彼女の話のだいたいをイオがざっくりまとめると、こんなことでした。
彼女たちのようなアイドルのファンは、元々、推しのためなら、割とどんなことにでも無理してでもお金を注ぎ込む傾向にあり、イオからも人情にももろい人が多い印象でしたが、どうやらそこにつけこんでくる商売が存在するらしく、各々が個人的に追い込まれた結果、ようやくファン同士でその、いわゆる恥に当たる部分を共有したところ、もしかすると、どこかからか彼女たちの名簿等の個人情報が流れている可能性があるんじゃないかと、疑いを持ちはじめた、とのことでした。
ここで「恥」という言葉を使ったのは、イオが彼女が話す様子を聞いていて感じたことで、彼女たちは推しのファンであることを維持するための金銭管理については、割と厳しく自己責任にしているところがあるらしいのでした。だからこそ、そうした金銭管理に失敗するようなこと、つまり詐欺に遭うようなことを共有しにくかったようで、それがなおさら事態が進行してきてしまった理由になったようだったからです。
そこにつけこむってのが余計に気に食わない、とイオは思いました。
「今は、そういう可能性があるからって、ファンの子たちであらかじめやんわり共有して、せめてもガードしたりしているんですけど、特に活動歴の長い推しに、新たにファンとして入ってきた子は、これまで推しの歴史に使ってこなかったものを埋め合わせするみたいに、一気に大金を使ったりするので、余計に狙われやすいみたいで」
「そっかー」
とイオは、これはもし本当ならかなり深刻だな、と思いながら、彼女から聞いたことを頭の中で反芻していました。
「イオさんにどうにかしてほしいって思ってるというよりは」
と彼女は、グラスの飲み物をストローで吸い込むと、
「誰か、関係のある大人の人に聞いてほしかったんです」
と言いました。
イオからは、彼女だってとっくに大人の歳に見えたのだけれど、おそらくだいぶ若い頃からファンをやっていて、その辺の実年齢の感覚が自覚できていないか、彼女が「大人」と呼べるような類の自信がないのかも、と思いました。
「ファンのネットワークができてるんだね、すごいね」
とイオは言いました。
「公的にはあまりファン同士でつるむことは推奨されてないんですが、自分たちの身を守るには必要だなって。いつからかはっきりしたんですが、別に推しも事務所も、私たちを実質的に守ってくれるわけじゃないんですよね。私たちはどこまで行ってもただのお客さんだし、結局、金づるでしかないので。たまにランク上げの結果も含めて、勘違いしてる子たちもいますが」
彼女はそこまでを一気に、若干やけっぱち的な言い方で言ってから、目の前にいたイオに気づいたようにその顔を見ると、ちょっと恥ずかしそうに、にこっと笑いました。
そんな彼女の顔が本当に可愛らしくて、イオもにこっとしました。ここで笑えれば、とりあえず大丈夫に違いありません。
「ファンの登録に際して、結構、情報とられるの?」
「はい」
「そっか」
「チケットが転売できなくなってからは、購入した個人が匿名とはいえ逆に特定できるようになったので、デバイスを通じて情報とられてるんじゃないかって言う子まで出てきて」
「あらら」
「さすがにそこまではないです?」
「うん、そうなっちゃうとチケットやグッズの転売阻止の結果が、まんまファンの個人情報さらすことになっちゃうよ?いくら金づる相手でも、ごめんね?あちらからかなりマイナスに見積もってあなた方を価値判断してるとしてもね?さすがにそこまではしないんじゃ?」
「そうですか、技術的に詳しくないので、その子たちを説得できなくて」
「でも、そういう気持ちにさせるのはよくないね。そこ、デジタル・ディバイドの問題じゃすまないよ、あ」
「デジタルに関する、情報格差とか能力格差のことですよね?」
「うんうん!」
「事務所も、購入時の案内とか注意喚起はかなり綿密にしてくれるんですが、いったん推し側に疑いを持つと、何も信じられなくなる気持ちも分かるので。たとえ彼女たちをだましたのが、推しや事務所と何の関係もなくても、ファン活動始めてから同時に出てきた問題だと、お財布の規模の小さな人ほど、完全に分けて考えられないというのも分かるので」
「うんうん。もしかしてそういうのの火消しとか、モグラ叩きまでやってるの?」
「はい。だって、ファンの疑念が、推しや事務所の落ち度になってほしくないから」
「はぁー、そっか、すごいんだね。ごめんね、感心しかできなくて。。」
「いえ、聞いていただいただけで安心しました。イオさんの上司の方、命令系統としてはトップとつながっていなくても、とても大事な方だと伺っているので」
「そうなんだー」
「知らないんですか?」
「うん、事務所全体の云々は、私に全部共有されてるわけじゃないから。ってことは、やっぱりトップ方面とダイレクトにはつながってないんだろうね」
イオは、可笑しそうに言うと、ははっと笑いました。
「なんでそこで笑うんですか〜?」
彼女の方も、つられて笑いながらそう言いました。
「いや、こっちにいろいろと通じてこない感じの理由が、やっと分かったからさ!」
「そうなんですね」
「あなたの方がよっぽど知ってそう」
まだ口元の笑いが解除されずに、イオは左肘をついた手先に顔をよっかからせて、上向きに、
「ふはー!」
と声と息を吐いたら、その次に、
「めんどくさ!」
と思わず、リウの前でも時々言っている口癖が出てしまいました。彼女は、イオのそのいきなりの投げやりな声に少し驚いたようでしたが、
「イオさんって、面白い人なんですね」
と言いました。
「いやそこ、面白いじゃなく、おかしな人だと思ったでしょう、いま!」
「え?バレました?」
そこまで来て、二人とも笑いながら、お互いに飲み物の最後をストローでずずっとすすると、彼女は、
「ありがとうございました、またなんかあったら聞いてくださいね!」
と言って、イオに手を振ると、自分たちのテーブルに戻っていきました。





2025.6.12


「その爆音、爆揺れの話さ」
とリウは、先日の代々木体育館でのライブの公演時間に、会場外で待機していたときにイオが感じたことを話し終わると、
「街の迷惑にはなってないの?イオさんは地元の人だし、返事が超怖いんだけど、でも、聞いた方がいいと思うから聞く」
と、割と真面目な顔でそう言いました。
「んー、あのさ」
とイオは、明後日の方を見ながら、答えました。
「あの、長野の有名なお寺にさ、善光寺さんっていう、表参道と青山の交差点の近くにも支店、じゃない、支社?があるお寺があるんだけどね。そこって、お堂の奥にいる仏さまの下に潜れる、有料の場所があってね」
「仏さまの下?それ大丈夫なの?」
リウはちょっと笑って言いました。
「うん、それ観光じゃなくて、なんか多分すごく古くて、『胎内めぐり』とかって言うんだけど」
「うん」
「えらい急な階段を下がると、まっっっくらなの」
「ん?」
「真っ暗なの、すごく」
「すごく」
「うん」
「あんな真っ暗、きっと今時、ほとんど体験できないと思う」
「うん、本当に真っ暗にするのって、スタジオでも果てしなく難しいんだよ?」
「自分の手すらも、見えないの!」
「怖くないの?」
「はじめは進むのが怖いと思ったんだけど、中でね、触らなくてはいけないというか、触った方がいいものがあって、壁に」
「うん」
「だから、それに向けて、壁を頼りに進むのね」
「前後には、他の人がいるの?混んでるの?」
「ううん、私が行ったときは、前の方に誰かいるなって、話し声が遠くでしたくらい?」
「うん」
「でね、でもね、進むうちに、なんかあったかくなってきて」
「温度が?」
「うーん、違うと思う。なんか安心してきたっていうか」
「真っ暗なのに?」
「真っ暗だからじゃないかな?『胎内めぐり』って、お母さんのお腹の中って意味だからさ」
「あー、赤ちゃんは、お母さんのお腹の中で、真っ暗なんだね」
「うん。その真っ暗さを思い出すのかね」
「自分が、お母さんのお腹の中にいたときの?」
リウがそれを言いながらいきなり泣き出したのを、イオはびっくりしてそのままにしていましたが、リウは、しばらくして、
「この理由、後から話すから、続きを話して?」
と言いました。
「うん、分かった。それでね、なんでこの話をしたかっていうと」
「うん」
「代々木体育館のリウのライブのときさ、外にいて、敷地から近くの横断歩道まで、爆音爆揺れしてたわけだけど」
「うん」
「私には、歌声とか楽器よりも、打音?すごい揺れを伴うドン、ドンってやつがいちばん体感として印象的で」
「うん」
「それがね、赤ちゃんが聞いてる心音に近い気がしたっていうか」
「え?」
「んー、あの音の大きさってか揺れってか、そういうのがね、私が赤ちゃんで、あの音が心音くらいの、なんかそのくらいの」
「中にいても、足元から身体中、振動してるし鳴ってるけど、そうか」
「あんなすごいの、そうそう体感できないってかね、私、それほどのライブ、行ったことなくて」
「そうなの?」
「音楽は、家とか歩いてるときに聴くタイプです。よほどアーティストに会いたいとか、お金で?参加人数で?御礼言いたいんじゃなければ行かない」
「そっか。で、あの爆音爆揺れに驚いたと」
「そうそう!」
「僕たちは正直、日常茶飯事だから、もう不思議に思わないけど、そっかー」
「なんかね、そうだな、私じゃないなら、あの土地が聞いてるっていうの?原宿あたりって、若い人がともかくたくさんいるしやってくるし、そういう新しいエネルギーがね、あそこはとてつもないレベルで集まっていたんだなって」
「なるほど、あのさ、赤ちゃんにとってさ」
と言ってまたリウが泣き出してしまったので、
「もうやめよ?」
とイオが言うと、リウが
「いいの、これ大事なの。話す」
と言うので、
「じゃあ、きっと泣きたいときだから、話しながら泣いてていいから」
「うん」
「赤ちゃんにとって?」
「うん、赤ちゃんにとって、お母さんの心音って、無事に生まれてきてねっていう応援の音に感じるんじゃないかなと思うんだ」
「へぇー、そっか!そうかもね!心音は、お母さんから赤ちゃんへの応援の音かー。」
「淡々と、トントンってさ」
「うんうん」
「だから、あの土地を、僕たちの爆音爆揺れで、応援してたのかも?って思った、って言いたかった、泣き出してごめん」
「ううん」
「土地ってね、存在がでかいから、土地にとっての心音は、本当にあのくらいかもしれないよね!」
「リウ、地盤の心配してたんでしょう?」
「うん」
とリウは、そこでようやく笑いました。
「私もそれ、全く心配しないわけじゃないけど、あのライブのときの、しかも体育館の外でも聞いたあの振動の不思議さをさ、言いたいと思ったら、こうなった」
イオも、そこで笑いながら言いました。そのくらい地元の人間にとっても、不思議な、ある種、異常な体験だったのです。そしてふと思いついて、
「あの近くにある明治神宮って、明治天皇を祀ってるから、実際はすごく新しい神社なんだよね」
と言いました。
「明治天皇?んーと、今のが、って今の人は天皇じゃないんだっけ、前の人が昭和天皇?その前が?」
「大正天皇、短命だったけど」
「その前が、その明治天皇だっけ」
「そうそう!うちのおばあちゃん、明治の終わり頃生まれ」
「じゃほんとに新しいね。じゃあ、よくさ、神社になったね?」
「うんうん。私もよくそう思ってた」
「じゃ、育てなきゃいけないんだ!」
「ん?」
「神社の土地」
「育つの?」
「違うの?」
「んー、リウがそう言うなら、そうかな?」
とイオは笑いました。
「なんか、リウは、そういう人だから」
「なに」
「え?なんか」
「だからさ、その神社も若いからさ、若い人が育てた方がいいんだよきっと!だからあんなに若い人が集まるんだね。なんだ、やっと分かった」
リウは一人で納得するようないい顔で、にこっとしました。
「んじゃ、ご質問のお答えにはなりましたでしょうか」
とイオは、うやうやしく聞きました。
「もちろん!すごく面白い答えだった!だから、裏原宿のファッションみたいなのも育つんだね」
「あー、きっとそうね。リウはそういうの好きなんだよね」
「うん」
リウはそこで、少し考えるようにしながら、
「さっきの、泣いたのね」
と言いました。
「無理しなくていいよ?」
とイオは言いましたが、
「ううん、いいの。心音のことを、僕に初めて面と向かって話してくれたイオさんだから、大丈夫」
「そう」
「僕ね」
「うん」
「捨て子なの」
イオは、それを聞いて、しばらく何も言えませんでした。
「その、まさに、神社に捨てられてたんだ」
リウは、続けて言いました。
「だからね、神社のこと、かどうかは分からないけど、神社の土地やそこに生えてる樹のことは、少し分かる。そこしかお母さんじゃなかったからっていうか」
イオは、どう、どの言葉で、どんな言い方で答えたらいいのか、見つけられずに少し黙っていました。早く答えないと気まずくなるのに。するとリウが、
「なんか、気を遣わせてごめん」
と絶妙なタイミングで言ってきました。
「あーもう、それを言わせないために今、すごく頑張ってたのに!」
「あ?そうなの?ごめん」
「謝んないで!!」
「またイオさんは、違うとこに怒ってる」
リウは、可笑しそうにして、
「これ、前にイオさんと共有した7歳のときに次ぐ、僕の秘密」
と言いました。
「イオさんもやられたやつね」
「あれ、マネージャーになったばかりのときだよね」
「その日だよ」
「そうだっけ」
イオは、最近忙しくて、過去を思い出す暇もないなと思いながら、デスクの上にあった、自分が用意してきたスープを、
「今日は私ももらっちゃお」
と言って、カボチャをとって飲みはじめました。
「僕も」
とリウも、トマトをとって飲みはじめました。
「ともかくさ、はじめっからろくな人生じゃないんだ」
とリウは、ずずっとストローをすすりながら、でもふざけた感じでも投げやりな感じでもなく、静かに言いました。
「そう?神社の土地のことが分かるとか、私はうらやましいけどな」
「そう?」
「この明治神宮の話とかさ、街のエネルギーの話とかさ、言葉にはしたことがなくて。なんか、人間の言葉で言っちゃいけないことのような気がして。だから、リウが最初に聞いてくれた人。そういうのが分かる人だからだね、きっと」
「そっか、なんか、自分から質問しといて、途中から変な方に行っちゃったから、心配してた」
「ううん、ありがとう」
「そっか、あ、じゃあマネージャーポイント、1000点アップね!」
とリウは笑いました。
「ありがとうはそういう意味じゃないよ!!」
「あーまた怒っちゃう。イオさん面白い」
「もう」
「地域の人に迷惑だったらって、本気で思ったこと何度もあってさ」
「そっか。そう思う人も、いるだろうしね」
「うん。でも、何かやって全部が全員に賛成されるなんてこと、ないからさ。なんか、たまに殺意さえ感じる、この僕らに対する否定的な何かが、くつがえるようなことがないかなーって思ってたから、今日の話は、ほんとにありがとう。マネージャーとしてじゃなくて」
「あら」
「イオさん、地元の人でもあるんだから」
「そっか」
そこでしばらく沈黙が続いて、イオがふと時計を見ると、だいぶ時間が遅くなっていたので、警備員さんのいつ何があっても何もなくても、変わらずに怖い顔を思い浮かべつつ、
「帰ろ?」
と言いました。
「おつかれっしたー」
とリウも景気よく言いました。





2025.5.25


東京タワーがキービジュアルの一つになるという、恋愛ドラマの話が来ました。
「ねぇこれ、台本読んだけど、『愛してる』ってセリフ、比較的厳しい状況で言わなきゃならないの」
「あー、そうね。でもまぁ恋愛ものだしねぇ」
「この言葉は、本当に愛してる相手にしか言いたくない」
「は?」
「人生で最初の『愛してる』をセリフとしては言いたくない」
「なるほど、それはそうかもしれない。同情に値する。なら、言葉としては言わないように変更してもらえるか、本当にできるかは分からないけど、とりあえずリウの気持ちも話して、お願いしてみる?」
「いいよ、恥ずかしい笑。イオさんにだから言えるわがままなの」
「なんだ、そっか」
「また大真面目に受け取ってからに」
「マネージャーの仕事でしょそれが」
「それでね、どうしたら気が済むか考えたの」
「うん」
「では聞いてください」
リウはそう言ってから一呼吸置くと、
「『愛してる』」
と真面目な顔で言いました。
「え?」
と声もなく疑問符を浮かべるイオに、リウはニマッと笑うと、
「これでもう、セリフとして言えるようになった!サンキュー」
と言って、ジャンパーをひるがえして機嫌良く去っていきました。
その背中を、イオは呆然と眺めていました。
これがリウとイオの、小さな小さな、そしてとても静かな、約束の始まりでした。





2025.6.9


イオは、横に自分と同じ姿で並んでいるリウのことをぼんやり感じていたら、4歳のときに、人生で唯一、同じベッドで寝ていたことのある、おばあちゃんのことを思い出しました。
おばあちゃんは、寝ている間、いつもイオに背中を向けていました。
ベッドはイオのおじさん、つまりイオの母親の弟であるおじさんが、イオとおばあちゃんが二人で寝るからって買ってくれた、かなり大きめのベッドでした。
イオは、おばあちゃんが寝ているのとは反対側で、自分の分、半分の領域にはとても気をつけていましたが、イオの姿勢が動くとベッドと襖の間に落ちそうになって、一度本当に挟まれて出られなくて大変だったので、毎晩、緊張していて、その結果ついに、ベッドの端っこがいつも意識できるように、自分の左足をいつもベッドと襖の間に落として寝るようになりました。
その足が落ちている暗がりは、布団からはみ出ているので冷んやりしていて、もしお化けに足をつかまれたら多分引きずり込まれるんだろうな、と思いつつ、それだと怖くて眠れないので、考えないようにしました。
何か言いたくても、手を伸ばすことも、声をかけることもできなくなって、だからというのか、おばあちゃんの背中は、ずっといつもイオを拒絶したままでした。
イオは、今との差を考えて、思わず涙が出てしまいそうになりました。リウの身体のどこかに手を伸ばそうと思いましたが、おばあちゃんのあの頃の背中を思うと、できませんでした。
リウにも、拒絶されるときがくるのかもしれない、その覚悟はいつでもきっとしておかないといけないんだな、とイオが考えていたとき、リウがまるでそれを遮るかのように話し出しました。
「なんかあの運動ってさ、すごく集中するし、『自分自分自分』みたいになるんだよね」
「え!?」
イオは、そのいきなりの話題が何のことを言っているのか、一瞬分からなかったのですが、しばらくリウが黙っている間に分かったら、可笑しくなってしまいました。
イオの笑いが何のことか分かった結果だと、リウは顔をちょっとこちらを向けて確かめると、さらに
「でもさ、そんな自己確認なら、大切な人の中でやらなくたっていいじゃない」
とちょっと真面目な調子で言いました。
イオは、そっか、リウはこれを真面目な話として言いたんだな、と理解して、
「自己確認ね、言い得て妙だね笑。ちなみに、そういうの女性でもあるよ?なんか自分にめっちゃ集中したくて、そういう気持ちになるときがある」
「そうなんだ。え?集中したくて?」
「うん」
「いわゆる、感じたくてじゃなくて?」
「それもないとは言わない、確かにそれもあるけど、集中したいが9割」
9割!?へぇー。じゃ、ほんとにほとんど自己確認系だね」
「うん、男の人と完全に一緒のベクトルか分かんないけど」
「確認と集中は、確かに違うっちゃ違う」
「うん。実際の行為中には、女性は相手を受け入れるしかなくて、自分優位な感覚にはならないので、だからこれは完全に一人のときね」
「そうなんだね!僕も自己確認は一人でやる」
リウは少しきっぱりした調子で、上半身を持ち上げると、ベッドサイドの水を飲もうとして、ついでにイオにも渡してくれました。イオはありがとう、と言ってそれを飲んで、水ってほんとに自分を新しくしてくれるものだなぁと思いながら、
「ああいう欲求は、身体が女性でも、男性性を上げたいと思うような方向性なんだろうね」
と言いました。リウも、
「実際、今時の女性は、男系の強い社会に出て同じようなポジションで仕事しようとしたら、かなり男性性が育ってないとやってけないでしょ。うちらの現場もさ、体力勝負の、精神的な力仕事みたいなのを引き受けてる女性は結構いる」
「うんうん、ほんとね。ほんと、そう思う」
イオは、現場でテキパキ静かに動き回る、密かに尊敬していたりするスタッフの女性たちのことを思い浮かべました。リウは、
「そっか、女性のそういうのも、ある意味、健康的に必要なところがあるんだね」
と言いました。
「何の話をしてるんだか、もう笑」
「ここまで言っちゃっていきなり恥ずかしがる?笑」
「いや、あのね」
「イオさん」
「うん?」
「はい」
リウはそこで、イオの側の二の腕を差し出してきました。
「ん?」
「さっき、どこか触りたかったでしょう、僕の」
「え?」
「さぁさぁ遠慮せず?」
「いいよ」
「よくないよ」
イオは、少し考えていましたが、そこから4歳のおばあちゃんとのベッドでの話を、初めてリウに、というより誰かに初めてして、ほっとして涙が出て、ついにはわーんと泣いてしまいましたが、そこまできて、ようやくリウの二の腕に触ることができました。
「イオさん、これも誰かといる練習ね。っていうか、僕とね?」
イオは黙っていました。おばあちゃんの背中の方が、イオにはまだ圧倒的で、リウもいつかそうなるのが怖かったからです。でも、そこをこらえて、
「そうだね、練習するといいんだね」
と言いました。
「うん、僕もしてるから」
とリウが言ったので、イオが、え?と言うように彼の顔を見ると、リウはちょっとニマッと笑って、なぜか後ろにあった枕を手に持って、イオの頭にぱふんと乗せました。
「なによ」
「別に。もう少し時間あるから眠ろ?」
「うん」
リウがまた布団に潜ってしまうのを見て、イオもようやく安心して眠りました。





2025.5.26



「ずっと安心してほしかったの。イオさんいつも過緊張だからさ?出会った頃からそう思ってたんだけど、いきなり抱いてあげるわけにもいかないし」
「当たり前だ!」
「だからね、いつもイオさんが過緊張そうなときは、心の中で抱いてあげてたの。大丈夫大丈夫って。でも、実際に男と女の身体としてそういうことになると思ってたわけじゃなかったから、こんなこと頼むの、なんか申し訳ないんだけど」
「お互いに、抱っこが足りない身体だからね」
「『愛着障害』って言うんだよね?」
「うんうん、私も結構一応悩んで、一人で調べたりしたけど、治す方法はないって書いてあったから、この人間不信?特に異性への強烈な不信感は、多分もう治んないんだなと思ってた」
「でも僕さ、イオさんにとって、例えば『男』なの?」
「ん?おー?そっか。それは確かに、男だとは思ってなかったかも。私の中では、リウはリウ」
「うん、だから、そんなふうに僕に属性つけなくていいからさ、ただイオさんと僕で抱っこする」
「笑笑、それでいっか」





2025.5.26



「ここはしないね?」
とリウは、イオの唇に人差し指を当てました。
「ここはね、本当に安心できる相手としかしちゃダメなの」
「そうなの?」
「そうなの。そこから無理に来る相手は気をつけないとダメだよ?安心搾取、そうでなかったら、身体もそうだけど、そこを越えてさらに心を、自分優位で安心させようとするような行為だからね」
「でもそこ最初に来ない?そうだとしたら、結構、誤解があるかもね?」
「そう思う。男女で違うかもだけど、特に女性にとっては安心感が身体を開く鍵になってると思うし、相手に安心を与えてあげられると思うと、それで自分をあげてしまったりする女性もいるから、お互いの間であげられる安心が極端に偏ってないかを尊重しているべきだと思ってるんだよね。こんなこと、口にしたことなかったけど」
リウは、自分で大いに語っておきながら、最後はそんな自分を面白がってるかのように言いました。
「リウのその考え方、いいな、素敵だね。とても愛が深い」
「無理やりやられた経験なら山ほどあるから、自分がするときには絶対、相手を大事にするんだって決めてたの」
「なるほど」





2025.5.27

しばらく黙ったあと、リウは少し言いにくそうに、
「これね」
と言いました。
「口を塞ぐって言葉があるじゃない。キスもそうだけど、それ以外にも」
「うん」
「それを考えててね、思ったことなの。この仕事に来た頃はまだ子どもで、声も高かったから、そういうときに声を出さないように、口にタオルとかはめられることがあって」
イオは、それがどういう場面なのか、想像がつきました。
「その当時のこと、あんまり記憶にないんだけど」
「うん」
「なんかそれだけは印象的で。口を塞ぐって、都合の悪い人を殺すって意味でもあるじゃない?」
「うん」
「ちょうどいろいろ、難しい言葉も覚えるお年頃だったからだと思うんだけどさ、その『口を塞ぐ』行為がみんなつながって見えて」
「うん」
「だからね、きっとキスも、世間で思われているよりも、本当は大切にしなきゃいけないことで、簡単に口なんて塞いじゃダメなんじゃないかって」
「うんうん」
「ABCのAとかですむ話じゃないって思えて」
「うんうん」
「口を塞ぐについては、なんか、ずっと言いたかった。でもうまく言えなかった。聞いてくれてありがとう」
「ううん、こちらこそ、リウがそんな頃からきっといっぱい考えた、大事な話をありがとうね」





2025.6.6


服を着て帰ろうとしていたとき、リウは、ふとした隙間を狙うかのように、
「ねぇ、僕とずっと一緒にいてよ」
と言いました。
イオはいきなり心が硬直して、思わず、
「あなたはこんないかず後家を選ばなくてもいいの」
と言い返しました。
「違うんだよ、イオさんは僕にとっては、女の子のうちの一人じゃないの。イオさんなの。そういう人に、僕は出会っちゃったの」
リウは、真面目な顔をして言いました。
それからすーっと両腕を伸ばすと、イオの方に近寄ってきて、大事そうに抱えました。
「僕はイオさんと一緒にいたいんであって、よく言われるような意味でのパートナーがほしいんじゃない。だから、選ぶとか代わりがいるとか、そういうことじゃないんだよね。なんかそれはね、出会ったときからそうで、そのことをずっと不思議に思ってきた。特に女の人たちに迫られたときとかさ」
イオは、その歩み寄りに特に抵抗しないでいましたが、リウの腕の中でその言葉を何度か反芻しながら、しばらく黙っていました。
そして息をひとつ大きく吐いてから、
「うーん、なるほど」
と言いました。
「それはまた、すごいことが起こっちゃったんだね」
イオは、真面目に考えている間、リウの肩に軽く乗せていた顎が、身体の力が抜けてゆっくり重く沈んでいくのを感じながら、今の自分に最も相応しい言葉を探すなら、「感心」だな、今自分はリウの自分への認識に、感心してるんだな、と思いました。
リウはそれを聞いて身体ごと嬉しそうにしながら、
「そうなの。分かってくれた?」
と言って、イオを抱きしめなおしました。
イオは、リウの声がイオの耳よりも身体に響いているのをじんわり感じつつ、
「うん」
と言いました。
リウはそこで身体を少し離すと、
「ねぇ、今度一緒に花火見ようよ。少し遠くからになっちゃうけど」
と言いました。続けて、
「イオさんが誰かと『一緒』にいる練習ね」
とちょっと偉そうに言うので、イオは苦笑しながら、
「んー、じゃあね、花火は遠くでどーん、私たちのところでは、線香花火でもやろう?」
と答えました。
「いいね!あれ?もしかして草花と同じで、花火も、おっきなのよりも線香花火が好きなタイプ?」
「うん。一人暮らし始めたときにね、夜中に突然思いついて、中華鍋にお水はって、真っ暗ななか線香花火やったの。それを当時は、携帯ってガラケーしかなかったんだけど、そのカメラで撮ったらびっくりするくらいいい感じに撮れてさ!それを自分のアイコンにしてたくらい。昔っから好き」
「なんだ!じゃあさ、いろんなのやろうよ、いろんな線香花火」
「うんうん!」
リウは、こつん、とおでこをイオのおでこに当てると、
「やったー」
と言いました。





2025.5.30



「あなたの雇い主として、一つだけ聞きます。一つだけしか聞きません」
「はい」
「あなたは彼のことを愛しているんですか?マネージャーとしてでなく?」
「その質問に、どうしてもお答えする必要がありますか?」
「もしその答えがイエスならば、辞表を提出してください。この件は、私たち二人だけの共有とします。彼にも理由は伝えません。あなたから彼に伝えることも許しません」
「はい」
「今の状況では、彼の芸能人としての人生が、もしかすると命がかかっている可能性があります」
「承知しています」
「では、ここからは、年齢は違えど、同じ職業の人間として伺います。この仕事に就いたことを後悔していますか?」
「いいえ」
「彼に専属したことは?後悔していますか?」
「いいえ。していません」
「では、この事務所を含めて、他の人のマネージャーになる気はありますか?」
「ありません」
「引き抜かれそうだったので、念のためにね」
「再現はできそうにないので」
「では最後に、同じ一人の女性として聞きます。私も独身なので人のことは言えないんだけれど、完璧な結婚適齢期を仕事に費やしたことには?後悔は?」
「ありません。だいたいこの職に就く前にすでに、結婚には向いてない人間だと思っていましたし、お仕事はとても楽しく勤めさせていただきました」
「彼をよくここまで育ててくださいました。育てるという言葉が嫌いなら、彼と共に成長をしてくださり、感謝しています。これは事務所自体もです、私たちも共に成長することができたと認識しています。私見だけれど、まるでジョーカーのようにやってきたあなたでなければ、この業界にこんなふうにはまってはくださらなかったでしょう」
「ジョーカーですか。恐縮です」
「あなたは、どこの業界での活躍も、一切存在しなかった人でしたからね」
「新卒時、就職にあぶれましたので」
「これからは?どうするの?うちで何か他の仕事を担当しますか?」
「いえ、今は業界からも離れていた方がいいと思います」
「彼のために?」
「しばらくはモーレツにやってきた仕事よりも恋をしたいので」
「誰と?」
「冗談です。7年間お世話になり、ありがとうございました。失礼します」





2026.3.24


「イオさん」
退社するイオに、上司が後ろから声をかけてきました。
「もう退職届まで受け取っているのにね?」
イオは振り返って、ちょっと首を傾げました。
「忙しすぎて、一度も貴女とお茶すら飲んだりしたことなかったから。ちょっと、最後にご一緒しない?」
「はい」
数十分後には、イオは、おそらく上司がゆっくりしたいときに訪れるのであろうお店の奥のテーブルに案内されていました。
「食べ物でもお茶でもお酒でも、何でも」
「ありがとうございます」
女性二人の、のんびりした時間が流れていきます。美味しい食事でお腹が満ちたあと、おしぼりで手を拭きながら、上司がちょっと思い切ったように切り出しました。
「あのね?貴女は小さかったから、覚えていないと思うんだけれども」
イオもそこで思わずおしぼりを手にとって、手のひらと指を湿して、気持ちを改めました。
「私ね、あなたがおばあさまと暮らしていらっしゃるときに、お宅に行ったことがあるのよ?おばあさまが招いた女性と一緒に。彼女がその機会に、私を連れて行ってくれたの」
「もしかして、その方はアメリカ人の方ですか?」
「そう、ドイツ系のね。でも見かけは白人で、英語を話していたから区別できないわよね」
上司はそう言って、お茶を飲みながら笑いました。イオは、当時のことを少し思い出しながら答えました。
「その方ばかりが、お元気で祖母と話していたので、ご一緒していた方の印象が薄いのですが、そっか、あれが」
「そうそう。あの頃、いちばん地味だったから私」
「祖母は英語を話す人だったので、同じく英語を話す方と得意そうに話すのがとても嫌で、お相手の方も、幼い私のことを可哀想な子だって、母も海外に出ていていませんでしたし、それをおそらく無意識に投げかけつつこちらをたまに眺めては、英語を話す祖母が私と比べて『良い状態の人間である』とでも言うようにお話しをされていて」
「幼い貴女の、沈黙したままの、とても静かな怒りがね、私には伝わってきていたの。彼女はおそらく本当に無意識だったと思うんだけれどもね、私にすら、貴女が感じたようなことが感じられていたから」
「上司もほとんどお話なさいませんでしたね」
「ちょっとね、それは理由があって。おばあさまに内緒で、面通しさせていただいただけだから」
「そうですか。私が用意されたお菓子に横から手を出したのを、祖母に途中で咎められましたけれども、最後の方で、お土産として、チョコレートとキャンディでできたレイをくださった。それを私の首にかけてくれたのは、こちら側のソファに腰掛けていたあなたでしたね」
「そうね。あの日私がやったのって、確かほとんどあれだけよ?でも貴女に少しでもしてあげられたことが、私の救いでもあったの」
「あれだけがちょっとだけ嬉しかったです。レイというのが、首飾りのことで、ハワイのものだとかろうじて知っていて、アメリカの中でもハワイだけは、祖父が住んでいた場所として、親しい名前だったので」
「そうそう。だからレイにしたんだけれどもね」
「祖父のことを、ご存知なんですね?」
「そうね」
イオは、しばらく上司の様子を伺っていました。上司は下を向いて、またおしぼりを触っていました。そこからイオは、今はこれ以上、聞くのはやめようと思いました。
「私は見た目にはあまり分からないかもしれないけれど、ロシア系なのよ。そう言えば、あの時期にあなたのお宅にいた気分の複雑さが、おじいさまのこととは別に、伝わるかしら。英語を話せていたから分からなかったと思うけれども」
イオは、少し目を丸くして、
「はい」
と言いました。
「あの時期のワシントン・ハイツの建物には、意外にいろいろな国の方がいらしたんですね」
「そうね」
イオには、あのときに饒舌に話していた女性と違って、その女性と横に並んで、部屋の奥に置かれた、同じ一人用の来客用の大きな肘付きのソファに、上司が遠慮がちに静かに座っているだけだった理由が、ようやく分かりました。ちなみに祖母とイオは、手前側に三人掛けのソファに座っていました。なんならイオは、ソファには座っていずに、応接間のエリアの横に置かれたグランドピアノの、ピアノ用の椅子をこっち側に向けて座っていました。
「よかった。この業界にまるで縁のない貴女にリウのマネージャーを任せたのは、あの日のことが印象に残っていたからなの。もう一つ、驚かないでね、私はリウの母親なの。血縁的にはね。彼にも誰にも、言えていないけれど。乱暴されてできた子だったから。彼にそれを言いたくないの。ごめんなさい、本当に。あなたを追い詰めた形で退職させておきながら」
イオは、ただ自分の前にあるテーブルとその上に乗っている食器だけをぼんやり視界に入れながら、心の方のフォーカスを上げていました。リウと、ライブ会場の爆音を外で聞いたときの話、胎内巡りと心音の話をしたときのこと、知らない母親のことを思って泣いていた彼のことも、思い出していました。でも、それをここでスラスラ伝えるのには、イオの余裕が全然足りませんでした。
イオが何も答えないでいるのをじっと受け止めているようなふうに、少しして、上司は口を開き、
「もう少し、ご一緒していても大丈夫?」
と少し気の弱い声で言いました。
「はい、もちろん」
とイオは答えました。
「あの」
とイオは、ふと思い出したように、
「高校生の頃に見た広告の言葉で、『生きるが勝ちだよ、だいじょうぶ』っていうコピーがあって。私、この言葉がすごく好きなんですけど」
「今の私の『大丈夫』で思い出したのね?」
と上司は少し笑いました。
「はい。基本『勝つ』って言葉が嫌いな人間なので、わりかし好きな『大丈夫』という言葉とそれを組み合わせるこのコピーを、なんで好きなんだろうって思っていたんですが」
「ええ。なんで?」
「ずっと死にたかったんです。そのくらいの頃からずっと。言葉にもできないほど」
「分かるわ。本当に死にたいときには、言葉にはならないわよね。むしろ『生きたい』ときじゃないと、死にたいという言葉は出てこないのよね」
「はい」
「言葉って不思議だと思ったものです。死にたかった頃、私も。彼を産んだ頃、特にね」
「続きを話して大丈夫ですか?」
「ええ、もちろん」
「なんか、今、どっと聞こえてきて。お前にとっての『大丈夫』を見ないまま、死んでしまっていいのかって。『大丈夫』という言葉が好きなら、生きて、自分にとっての大丈夫を、もう一度信じられるように、感じられるようになるまで生きて取り返せって」
「素敵ね、そう考えるなら、死ぬのをちょっとは保留にできそう」
「はい。ここまではっきり、この言葉から受けていた印象を言語化したことなかったんですが、だからこの言葉を持っていて大丈夫だったんだなって、やっと分かりました。『勝つ』って言葉が入ってても」
「考えてみたら、おじいさま、お名前に『勝』が入っていたわね」
「あ、ほんとだ、忘れてました笑。あの時期に『勝三』って、漢字でも音でもヤバいですよね笑」
「そうだわね、特に日本ではね笑。ハワイやアメリカにいらして、むしろよかった気がする」
「祖父のこと、こんなふうに話すのも実は初めてです。祖母は、こういうふうに祖父のこと捉えていなかったから」
「そう、なら、思い切って今日話して、よかったわ」
「はい」
「人と争うのは嫌いだけれど、自分と戦うのは悪いことじゃないと思ってるの、私は。自分にとっての『大丈夫』を確認するため、確保するために、死にたい自分と戦うのは、悪くないわ」
「はい。上司と話さなければ、この言語化、きっとできなかったと思います。ありがとうございます。なんかどっか引っかかっていたのに、どうしても好きな言葉だったので」
「いいえ。そうやって、広告で、誰が言っているのか分からない、街やテレビでふと見かけた言葉に、励まされることってあるわよね」
「他に属性がつくと、自分にとってのその言葉の何かが減っていっちゃう気がして、勝手にもらってて」
「いいんじゃない?広告だもの。アイドルと同じで、励ませる対象が特定の誰かにはなっていないのよ。だからこそ、相手の思い入れだけのものになって、効果が最大になるんだと思うわ。受け取る側が勘違いを起こさないかぎりね。勘違いさせない配慮も相当に必要になるけれど、不特定多数を相手にするというのは、そういうことだと思っています」
「はい。私が退職することになったのも、その勘違いをリウの周りの誰にも、させないためだと思っていますので」
「そうね、難しいことだから、この関係を勘違いしないのは、とてもね」
「分かっていたはずのことですし、この間、リウとの交流でいただいたものは決して失われないような大切な記憶になりますので。この件によって、自分が仕事を失敗したとも思っていません」
「もちろんよ、私もそうは思っていません」
「ありがとうございます」
「死にたい感じがね、似ているのかもしれない、私たち」
イオの謝礼に対して聞こえてきた上司の言葉は、とても強いものだったけれども、彼女の声が夜も遅くなってきたお店の一角の空気に溶けていくのを、イオは静かに、心地よく感じていました。





2025.5.30



イオが自分のロッカーをすっかり片付けて、コートを羽織って出ようとして、ポケットに手を入れたとき、何かに触りました。これ何度かあったな、と思いながら、取り出してみると、やっぱりリウからのメモでした。
「辞表のこと、今日聞きました。今夜、日付変更線のあたりで、あのケヤキのところにいて」
いつだったか、リウを連れていった、イオの大好きな表参道の夜のケヤキ並木。そういえば、お揃いのミサンガを編んでって言われたのもあのときでしたっけ。隠していた方がいいんだろうと思って、厚さが薄めの左手首のサポーターの下に、つけたままになっていました。
イオは、少し早めにケヤキ並木のところに行って、ぼんやり座っていました。そもそもゆっくり表参道に来るのすら、久しぶりでした。
果たして、リウは日付変更線ジャストの時刻に、ふっと現れました。あのときとおんなじサングラス、でもそこだけ浮いている格好ではなく、ずいぶん大人になったなぁとイオは思いました。身体を鍛えはじめてからは雰囲気もはっきりしてきて、もう青年も終わってゆくお年頃。リウは29歳、イオは40歳になっていました。
リウはイオの隣に腰かけると、前を見たまま、しばらくして「さよなら」と言いました。そして続きは、サングラスを外しながらイオの方を見て、「新しい人は男だから」と言いました。
「マネージャー?」
「うん」
「そう」
イオは、少しの間で決意して、左手首のサポーターの下から、ミサンガを出して外そうとしました。するとリウの手が伸びてきて、イオの手を止め、
「僕の方はだいぶ前に切られちゃったんだ」
と言って元通りミサンガをサポーターの下に収めました。
驚いてリウの方を見たら、リウの顔が、出会って以来いちばん近くまで迫っています。
慌てて後ろに下がろうとするイオの身体をつかまえると、リウはそっとキスをしました。
それは不思議なくらい長いキスでした。
硬直したままのイオから顔を離したリウは、イオの目をじっと見ました。
リウの雰囲気からもう消えてしまっていたと思った、かつてリウに質問されて答えたイオにとっての光が、リウの目の中で、静かに灯っていました。
それがどういう意味なのか、今は分からないけれど。
もしくは、今は、分からなくても?
リウは最後の一瞬、笑うように少しだけ目を細めてから立ち上がって、元通りサングラスをかけると、同潤会アパートの建ち並ぶ暗がりへと消えていきました。

(前編終わり)











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